傷つきたがりちゃん(4)



 夕がラビリンスの扉を開けたのはもう三時を過ぎるような時間だった。
 こんな時間に来る客は珍しいなとキリジは思ったがそれが夕だと分かるとびっくりした表情を見せた。更に驚く要素として、夕がこれ以上に無く暗い表情をしていたというものがあったからでもあった。
「夕ちゃん、こんな時間にどうしたの?」
「…キリちゃ〜ん……」
 ぼろぼろと涙が出てきてしまっては何があったかキリジにはわかっただろう。
「この間の奴、上手く行かなかったのか?」
 キリジに優しく聞かれて、夕は小さく頷いた。
 キリジはまだ見たことの無い夕を泣かせた男に殺意を抱いた。
(どんな男かしらねーけど絶対殺す!)
 メラメラと闘志を燃やすキリジの裾を掴んで夕は子供のようにシクシクと泣いていた。
 涙に濡れていた夕の顔は強烈に色っぽく嗜虐心をそそるもので、店内の客の視線が集中していた。もちろん夕にその自覚は無かったから、キリジが周りをそれとなく牽制した。
 カウンター席に座らせると、キリジは夕に囁いた。
「ここ、終わるのあとちょっとだから、待っててくれる?誰にもついていっちゃダメだぞ」
 こくんと頷く夕の仕草が愛しくてキリジは困ってしまった。
 その後、キリジは仕事を終えると夕を自分のアパートに連れて行った。

 キリジの部屋に入った頃には夕も幾分か落ち着いていて、涙もやっと止まっていた。
 キリジは相手の男に怒りながら夕を案じた。だからいつものように烈火のように相手を貶そうとはしなかった。ただ真剣に話をする。
「ねぇ、どうしてもその男が好きなの?」
 夕はキリジのもう何度目かになる質問をぼぉーっと頭の中で反芻した。
 けれど夕にはどうしてもそれに対して否定的な言葉は出なかった。
 出るのは肯定する言葉だけだ。
「うん、好き。どうしよう、好きだ。まだ好き。嫌いに、なれない」
 キリジの言葉は優しいままだった。諭すようにゆっくりとしゃべる。
「でも、何をしても夕を好きになってくれないんだよね?」
「……うん」
「やっぱ根っからのノンケなんだよ。それだったらもう好きでいるのもつらいだけだよね?」
「……うん」
「じゃ、頑張ってそいつのことを忘れようよ。報われない片思いほどつらいものは無いよ。世の中には他にももっといい男、いるよ?」
 好きだけど、諦める。
 夕が考えたことも無いことだった。
 好きならずっと好きでいればいいと思っていた。相手がどんな人とつきあおうが隠れて好きでいればいいと思っていた。けれどそれじゃどこにも進めない。ただつらくて痛い場所にぽつんと立ち続けるという事。それには強さが必要だ。けれど夕だって傷つく。痛いのは嫌だった。
「諦めれば、もうつらくないのかな……?」
「きっといつかはつらくなくなる。大丈夫、夕ちゃんなら」
 キリジは夕の頭を優しく撫で続けた。夕はそれに甘えていつまでもキリジに寄りかかっていた。
(好きなのに諦める…か……)
 その考えを頭の中で何度も巡らせた。
 やっと眠れた夕が起きたのはもう次の日の昼を過ぎた頃だった。


「あ、学校!」
 がばっと体を起こした夕の横ではキリジはすやすやと寝ていた。キリジは昨夜夕を優しく寝付かせてくれたようで、手が繋がれていて夕は驚いた。
 慌てて手を外し、大学に行こうとすると、キリジがはぁっとあくびをしながら起きた。焦った様子は無い。生活習慣がそもそも違うのだから当然だ。
「何?もう帰るの、夕ちゃん?」
「うん、大学あるから」
 っていっても既に午前中の授業はさぼったも同然だったが。
 キリジは眠気まなこで
「あ、大学。そうだったね、大学生だったね、夕ちゃん」
 とまだ働かない頭で返していた。
 夕はちらりと時計を見た。大学の授業は既に三時限まで終わっているはずだ。けれど四時限目との間に昼休みが入るから少しは時間があるようだった。
「ごめん、シャワーだけ借りていい?」
 キリジがうんと頷くと、夕は急いでシャワーを浴びた。
 一日明ければ、なんとなく心も安定していた。
(そもそも今までもっとひどかったこともあったのに、あんなんで泣く方がおかしい)
 とさえ思った。
 シャワーを浴び終わると、キリジが身支度を整えて軽い朝食を作ってくれていた。それを短時間で食べ終わると、夕はキリジにぺこりと頭を下げた。
「昨夜はありがとう、キリちゃん!俺、今から大学行くから」
「気にするなよ。今から駅まで行くのか?」
 キリジの言葉に夕は頷いた。
 車は鷹臣のアパートに置いたままだった。仕方ないので大学も電車で行くことになる。
「じゃ、俺、急ぐから!本当にありがとう!」
「待てよ。駅まで車で送ってやるよ」
「え、でも」
「いいから」
 キリジはなんでもないことのように笑った。夕はそれに対して申し訳なく思いながら、甘えることにした。駅まで歩くと時間が少しかかる。
「じゃ、お願いします」
 慎ましくお辞儀をする夕にキリジはもう一度笑った。

 車に乗ってサングラスをかけるキリジは随分と格好よかった。
(そういえば昼間にキリちゃん見るのってあんま無いなぁ……)
 いつも店内の薄暗い光の中でのバーテン姿だけだ。バーテン姿もかなりかっこいいが、白日にさらされたキリジも決して夜の姿に見劣りするものではなかった。むしろ、案外健康的で普通の美形の男に見えた。夜に会うほうが神秘さは増すかもしれないが。
 目があうと、甘く笑いかけてくれる。
「ホント、キリちゃんってかっこいいよね……」
「はぁ?」
「ネコだとは思えないや……」
 それは夕の正直な感想だったが、キリジはムスッとした。
「俺だってアイツに襲われるまでそうだとは思わなかったよ……」
 アイツとは理人のことだろう。ふと夕がキリジの顔を見ると、なんだか顔が赤かった。
 ムスッとしているのではなく、照れているのだ、と次の瞬間理解する。
「でもキリちゃんって可愛くもあるよね……」
「どっちでもいいって」
 くすくす笑う夕にキリジは困った風に突っ込みを入れた。自分の話題はなんとなく恥ずかしいらしい。

 駅まで着くと、ちょうど電車が来たところのようだった。
「あ、電車いっちゃうかも!俺、走るよ!」
 そう言って、車から降りようとしたらハッと見慣れた人影に気付いた。
 それを見て夕が呆然と立ち尽くすと、運転席のキリジが不思議な顔をする。
 そして不意に気付いた。夕の視線が固まった先には、一人の男がいたのだ。
 身長は185センチくらい、理人と同じくらいの背丈。大学生のような身なり。けれど随分とふてぶてしくていかにももてそうなオーラを出している。
 キリジは車を降りて、固まったままの夕の元に駆け寄った。
「……鷹臣ってコイツのこと?」
 夕の腕を掴むと、夕はハッと我に戻って頷いた。
「……夕。そいつ、誰?」
 今度は鷹臣が夕に聞いてきた。
 鷹臣は何故か夕を据わった目で睨んでいて、夕はそれに竦みあがった。
 それに気付いたキリジは腹の内からムカムカした感情が浮腫み上がってきた。昨夜の夕の涙が思い起こされた。
「……昨日、夕は俺の所に泊まったんだ」
 夕はハッとした。
 誰の声かと思ったらキリジのものだった。キリジは勝ち誇った表情で鷹臣を見据えていた。
 夕のことを夕ちゃんではなく夕と呼ぶキリジの顔はれっきとした雄の顔だった。
 夕はおろおろした様子でキリジと鷹臣の顔を交互に見る。
「あんたが夕を泣かすから仕方なくうちにね。まあそれで美味しい思いをさせてもらったんだけどな」
 にやりと笑うキリジを鷹臣はメラメラと怒りを含んだ目で睨み付けた。
「知ってる?夕ってお尻に可愛いほくろがあるんだよ。南十字星みたいな」
 クスッと笑うキリジの顔はまさに性悪で、その変貌に夕は驚いた。
(キ、キリちゃんって演技上手!!)
 と変な感心をしてしまったぐらいだ。最も、それもキリジが鷹臣に対して深い怒りを感じていたせいだが。
 そもそも何故キリジが夕のほくろの位置を知っているのか、と思い起こせば、前の理人との他愛の無い会話からだ。けれどこんな風に言われると、それこそキリジと夕との間で何かがあったと示しているように聞こえるものだった。
 案の定それを聞くと、鷹臣は沸々としていた怒りをいきなり爆発させた。
 ツカツカと夕の元にやってくると、その腕をすごい力で掴みあげた。
「ちょっ!痛いんだけど!鷹臣!!」
「っるさい!!お前は俺と一緒に来るんだ!!」
 有無を言わさずズルズルと鷹臣に連れていかれる。キリジは心配そうに夕を見ていたが、それを止めようとはしなかった。
 キリちゃ〜ん、と小さく口を開けて助けを請う夕に優しく微笑んだ。
「……頑張れよ、夕ちゃん」
 これでまた夕が泣かされれば今度こそ鷹臣を許さない、とキリジは心で固く誓った。





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演技派キリちゃん。
written by Chiri(3/22/2008)