傷つきたがりちゃん(2)



 夕がよく見知ったドアを開けると、いつものように見知った顔ぶれがそこにいた。
 カウンターの向こうには制服を着こなした男前のバーテン。そしてそれに対面するようにカウンター席に座ったこれまた男前な客が一人。
「いらっしゃい、夕ちゃん」
 普段澄ました顔で酒を作るこのバーテンとは何年ものつきあいで、今では夕の親友とまで言える仲になった。店の客には「誰にも落ちないクールビューティー」と少し前まで称されていたことをこの男は知らない。
「また来ちゃった、キリちゃん」
 夕が少しだけ曖昧な顔で笑うと、キリちゃんと呼ばれた男、本名は宇尾野キリジ(うおのきりじ)、は少しだけ眉をよせた。
 夕がいつものようにキリジの前に座ると、隣の席に座っていた男も親しげに話しかけてきた。
「今日は何飲んでくの?」
「んー……」
 夕がちらりとキリジを見つめる。それでキリジは分かったようにフンッ、と鼻を鳴らした。
「ハイハイ、ノンアルコールだよな?また夕ちゃん、ぱしられてるんだ!」
 キリジが腹を立てているのはまさにそこで、キリジは夕が鷹臣によって言い様に扱われていることに対して前から不信感を募らせていたのだ。夕は小さく笑って、身を縮こませた。
 鷹臣が女と遊んでいる時間、夕はよくここで時間を潰すことが多い。この、男達だけが集まるゲイバー「ラビリンス」でだ。流石に相手を探すことはあまり無いが、それでもなんとなく通うことで知り合いが増えたこの店は夕にとって心のよりどころの一つだった。

「えぇ!まだソイツに使われてたんだ?もったいないなぁ、こんな可愛い子を」

 驚いた声を夕の隣であげたのは篠月理人(しのつきりと)という男だ。
 長身のモデル体型で、髪は茶髪でメガネをした少々軟派な男。この男はフリーのカメラマンを職業としている。
 キリジはぎらんと目を光らせて、理人を睨む。
「理人、てめー、夕ちゃんを口説くなよ」
「まさか!キリちゃんは俺の愛を信じられないの?」
「お前みたいな変態信じられるか!」
 キリジの言葉を笑って流す理人を見て、夕は苦笑しながら果たしてこの二人は本当につきあっているのか、と思った。
(理人さんに言い寄られているのをオッケーしたって聞いたけど……)
 夕が来れば2人はいつもこの調子だ。むしろこれが普通なのでは、とさえ思う。これも2人の愛情表現なのだろうか。
「ったく夕ちゃんもな、さっさとそんな奴には見切りをつけちまえよ」
 そう言うキリジの言葉はまるで親かお兄さんかのように夕を優しく諭していて、それを見た理人が小さく、
「あーキリちゃんって夕ちゃん馬鹿なんだから。本当妬ける……」
なんて呟いたが、キリジと夕の2人にはそんなことも聞こえていなかった。
 一方、夕はキリジの言葉を受けながら、やはり曖昧に笑った。
「でも、優しいんだ。アイツ、本当は」
「それ、夫にドメスティックヴァイオレンスを受けてる主婦が同じこと言うぜ?」
「でも、本当なんだよ……」



 夕が鷹臣と初めて会ったのは大学入試の時だった。
 夕は緊張すると軽いパニック状態に陥る人間で、殊更に本番には弱かった。だからセンター試験でも失敗をして、二次試験で挽回しなければそれこそ後が無いという崖っぷちぶりだった。
 当日の朝ごはんはおろか、前日の朝から既に食べていない状態で、顔は真っ青、なのに体も頭もガチガチに固まっていた。
 そんな夕の様子に気付いたのが隣の席に座っていた鷹臣だった。
「……大丈夫か?」
 心配そうに話しかけてきた鷹臣に夕はやはり少しパニック気味で
「だだだだだだだだだ大丈夫!!」
 と返した。それを見た鷹臣は少し考えてから
「……それ、大丈夫じゃねーだろ」
 と言ったのだ。
「あああの、ごごごめんなさい……」
「いいから」
 優しく受け止めてくれる鷹臣に夕は泣きそうな顔ですがりついてしまい、鷹臣も何も言わなかった。ただ夕が落ち着くまでずっと背中をなでては「ほら、深呼吸でもしてろ」と声をかけた。
 入試前で皆がピリピリしている時だ。実際に夕の周りは最後の最後まで他人を無視して参考書を読み漁っていた。
 けれど、鷹臣は特に危機感にかられた様子も無く、ひたすら夕の背中をなで続けてくれた。
 それから鷹臣に会えたのは、無事夕が合格して入学式に出たときだった。実際、鷹臣の方から夕に声をかけ、「よう。受かったんだな?良かったな」と言ってくれた。その時から夕には既に開花待つ恋心が存在していて、それが実際に芽吹くまでは時間がかからなかった。それは鷹臣が結構有名な遊び人で、性格もそこまで誉められたものではないということを知っていてもとめることができなかった想いだ。



「でもだからって夕ちゃんにそんなひどいことしていいってわけじゃないだろ?」
 夕はキリジの言葉は最もだと思った。それでも割り切れない感情だってある。
「うん、分かってるんだ。分かってるんだけどね」
 キリジのいつも向けてくれる心底心配している瞳をまっすぐに見返す。
 この人には嘘はつけないと思うから。
「好きだから、仕方ないんだ」
 俺がそう言うと、キリジははぁぁっと大きくため息をついた。
(ごめんね、いつも説得されてあげれなくて……)
 来るたびに、鷹臣と縁を切れと詰め寄られる。それでもそれを肯定できずにいて、いつもキリジは諦めた様子で息をつく。申し訳ないとずっと思っていた。
(本当はね、分かってるんだ……、キリちゃん……)
 このままじゃどうにもならないこと。
 良いほうにも悪い方にも進展しない。それが果たして幸せなのかどうかは分からない。
 けど自分だってそんなの望んでいないはずだ。

「そんなに好きなんだったら、こっちから誘っちゃえば?」

 突然の理人の声にぴくりと夕が反応する。不思議そうな顔で理人を見れば、理人もなんでもないような声音で返した。
「だって、どうしても好きなんだろ?諦められないんだろ?向こうはノンケなんだから待ってるだけじゃ落ちないんじゃない?せっかくゲイなんだから、誘って押し倒させて体からメロメロにしちゃえば?」
 目をぱちくりとさせて夕は理人を見つめた。
「馬鹿理人!夕ちゃんはそういうキャラじゃないだろ!」
 横からキリジが何かを言ったが、夕には聞こえていなかった。
「……それだ」
「へ?」
 キリジが目を真ん丸くして夕を見つめる。その顔は見たことも無いものを見たようなそんな顔。
「俺、やる!」
 夕にとってそれは目から鱗が落ちたという感じだった。
 今まで鷹臣の言いなりになって、自分からモーションなどかけたことなど無いのだ。それなのにいつか両思いになれるかも、だなんて思っている方がおかしい。
 それに、結果どうなるとしても、やはり何かきっかけは必要なのだ。
 それが鷹臣ともう一生友達にさえ戻れないことでも。

「よし!じゃあ、特訓だね!!」

 便乗したのはもちろん言いだしっぺの理人だ。キリジがとめる声も無視して、すっかりノリノリになっている。夕に至ってはキリジの声は聞こえていない。
 夕は真剣な面持ちで理人を見つめ、それはまさに「すぐに修行にとりかかりましょう、師匠!」という雰囲気だった。

「でも、俺、どうやって誘えばいいのか、分かんないよ?いきなり脱いで押し倒せばいいの?」
「ばっ、ばか!!夕ちゃん、もっと自分を大事にっ!!」
「そうだねぇ。夕ちゃんはどっか自信があるところとかあるの?」
「へへ変なこと夕ちゃんにきくなよ!理人!」
「うーん、俺、お尻に南十字星の形のほくろあるんだけど、そういうのってセクシャルアピールになるかな?」
「夕ちゃんも何普通に答えてるんだよ……!!」
「ほくろって何気にえろいよね。吸い付きたくなる……」
「変態の理人の意見なんてどうでもいいんだよ!!」
「もう〜、キリちゃんさっきからうるさいよ!」
「……」

 いちいち親目線のコメントを入れるキリジに夕はぴしゃりと言いのけた。
 それっきりキリジは肩を落として黙ってしまったが、すっかり鷹臣をメロメロにさせることに真剣になっている夕はキリジがしょげていることにも気づかなかった。
(キリちゃんもお気の毒に……)
 だなんて全てを把握している理人だけが心の中で薄くせせら笑っていた。
 理人にとって夕は愛しい人が特別に大切にしている友人であって、それを普段からいきすぎと思っていたからには何もフォローをするつもりは無かった。
(ざまぁみろ、キリちゃん!)
 それも理人がキリジを想う故の小さな嫉妬に過ぎない。


 夕と理人の会話はその後も続いた。
「でも、やっぱり自分から脱いだりするよりは相手から襲わさせるっていうのがポイントだよね」
 理人の意見に夕はうーんと唸った。
 すっかり大人しくなったキリジを横目にしながら、理人は夕に聞いた。
「相手って身長何センチ?」
「えっとね、185センチくらいかなぁ?」
「じゃ、俺と同じ位か……」
 理人は目を細めて、夕を見つめた。顎に手を添えて、うーんと真剣に考える。
「夕ちゃん、ちょっと顔上げて」
 夕は首をかしげて理人を見つめた。
「ああ、あげすぎ。今度はもうちょっと下げて。そう、そこ」
 夕は理人に指示された角度で首を上げる。
「その角度で上目遣いで俺を見てみて?瞬き我慢して。ちょっと涙目になるくらい」
 言われたとおりに夕はそれをやってみた。30秒も瞬きを我慢すれば自然と目が潤ってきた。
 その瞬間、
「うわ、エロ!!」
 理人が叫ぶものだから、キリジは恨めしい目で理人をガンと睨みつけた。
 キリジと目をあわせれば視線で殺されそうだからあえてそちらの方向を理人は見ようとはしない。
 夕が不思議そうな瞳を理人に向けると、理人は大きく頷いた。
「よし、それでいこう!」
「それでって……。俺、特に何かした覚えないんだけど……」
「いや!その角度と物欲しそうな瞳がポイントなんだよ。現役カメラマンの言うことを信じなさいっ!」
「人物写真は専門じゃねーくせに……」
 それでも控えめに突っ込みを入れてくるキリジに理人は苦笑した。
「とにかく、それで相手の名前を呼べばいいと思うよ。一回相手の顔を見て、一度顔を俯けて、また相手の顔を見てからだと更に効果的だ」
「へ?なんで?」
「まぁあえて言うなら雰囲気作り?何かあるぞっていう気持ちにさせるんだよ」
 夕が「へぇそうなのかぁ」と呑気に言っている一方、キリジは「この口先だけの男が……」と陰口を叩いていた。
 それを聞こえないふりをして、理人は夕に笑いかけた。
「じゃ、練習してみよう。夕ちゃん」
「う、うん」
 夕は言われた通り理人の顔を見て、そして俯いた。そしてその後また顔を上げて、鷹臣の名を呼んだ。
「鷹臣っっ!!」
「ハイ、ダメー!」
 間髪入れずにすぐに理人がとめた。
 ブーっと理人がバッテンを腕で作ると夕はすねたように口先を尖がらせた。
「難しいなぁ。何がいけないの?」
「羞恥心が足りないんだよ。見ててごらん、俺が見本見せてやるから」
 それにしてもこの男、ノリノリである。と呟いたのは夕だけではない、キリジもだ。
 理人はいきなりキリジの方を向くと、じっとキリジを見つめた。
「な、なんだよ」
 いきなり矛先が自分に向いたキリジは動揺したが、理人がまっすぐ自分を見てくるものだから目が離せなかった。
 それを分かっていて、理人はキリジから目を一旦離す。そして意を決してもう一度顔を上げて、
「キリちゃんっ……!!」
「てめー気色悪いんだよ!!」
 あまりもの悪寒にキリジは叫んでいた。
 理人は予想と反応が違ったらしく、「あれ?おかしいなぁ……」と首を掻いていたが、確かに理人みたいな雄雄しくてでかい男が誘ってきても違和感がありまくりなのだ。誘うにしても無理やり奪う方がよっぽどあっている。
 夕が小さくため息をついたのが聞こえたのだろう。
 理人は慌てて、キリジに振った。
「じゃ、キリちゃんやってよ!」
「はぁぁ!?なんで俺が??」
「え?キリちゃんが見本見せてくれるの?」
 キリジが夕の方を振り返れば、夕は目をキラキラさせてキリジを見つめていた。
 キリジだって身長も高いし男前だが、それでも理人よりはどこか中性的な美しさだった。そもそもキリジだって今や受ける側なんだから別にぜぇ〜んぜんおかしくないはず、と理人は心の中でにやりと笑った。
 キリジは何もいえなくなって口をパクパクとさせた。
「ほら、せっかく俺がいるんだから、俺に対してやってね」
 理人が自分を指差して言う横で、夕は嬉しそうに傍観姿勢に入っている。
「え?え?本当にやるの?」
 理人と夕が同時に大きく頷くものだから、キリジは余計に情けない顔をした。
(勘弁してよ……)
 仕方なく理人の方を向く。
 理人はニコニコと笑いながら、キリジを三角形の目をして見ていた。
(このドS野郎……)
 と思ったが、もちろんそれを口に出しては言わない。
 キリジは心の中で大きく嘆息すると、腹を決めた。
(えっと、まず理人を見ればいいんだな?)
 頭でたどたどしく手順を思い出しながら、キリジは理人をじっと見つめた。キリジの目には不安そうな色が濃く映る。
 そして今度は顔を俯ける。手には脂汗がにじんでいた。
(な、なんか無性に恥ずかしいんじゃないかな、これ……)
 そう思いながら、また顔を上げて理人の顔を見た。
 相変わらずのニコニコ顔。キリジが理人の名前を呼ぶのを待っている顔だ。
 しかも隣では夕もそれを当然のようにして見つめている。
(な、なんか言いにくい雰囲気……)
 でも言わないといけない。夕ちゃんのためだ。
 キリジは心の中で決心して、目の前の男を真剣に見つめた。
 恥ずかしくて頬が勝手に赤くなる。
「り…、理人っ………!!」
「キリちゃんっっ!大好きだぁぁぁ!!!」
「ぎゃーーー!!!」
 キリジが理人の名を呼んだ瞬間、理人はカウンターを乗り越えてキリジを抱きしめてきた。
「ややややめろ!!理人!!!」
「大丈夫だよ。今日も仕事終わったら、ちゃぁんと可愛がってあげるからね。キリちゃんの○○に俺の○○を××して、心ゆくまで△△して……」
「死ねぇぇ――――変態ぃぃぃ―――――!!」
 それを傍目で見ていた夕は目を真ん丸くしていた。
「すっごい効果……」
 そして夕はハッと気付いた。
 師匠と呼ぶべき人間は理人ではなかった。キリジだったのだ。
 キリジが獣と化した理人を無理やり引っぺがし、たんこぶだらけにして席に戻すのを確認すると、夕はキリジに真剣な瞳をまっすぐにぶつけていた。背景は既に夕日モードに突入していた。
「俺にもご指南お願いします!!キリちゃん師匠!!!」
「へ?師匠!!」
 いきなりの夕の90度のおじぎにキリジはとまどいを見せた。けれどすっかり体育会系のノリになっている夕は猛アタックでキリジに教えを乞う。
「お願いします!!フェロモン師匠!!」
「ちょ!!フェロ?何?夕ちゃん?」
「俺に修行をつけてください!誘い受け師匠!!」
「もう、なんなのさ――!!」
 夕に至っては本気の本気。
 ただそれに巻き込まれたキリジは結局その後も自分でもよく分からないことを夕に教えるはめになり、とっても大変な時間を過ごしたとかなんとか。
「それでどうすればいいんですか!?小悪魔師匠!!」
「だからそれなんなんだよ――!!」
 キリジの叫び声はその後も長いこと店内に響いていた、らしい。





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だってこういうノリ大好きなのっ!
written by Chiri(3/15/2008)