Sweet and Spoilt(2) 彼女の父親が浮気をしたのは彼女がまだ9歳の頃の話だった。 二人が離婚届をテーブルに置いて話し合う部屋に彼女は飛び込んで言ったのだ。 −−パパとママは真帆のことずっと好きじゃないの? −−真帆とずっと一緒にいてくれないの? 母と父は顔を見合わせた。 ママもパパも真帆の事ずっと好きよ。 でもね、ずっと一緒にはいられないのよ。 そう言う母親の言葉を無視して真帆は何度も言った。 真帆はずっと一緒がいいの。 真帆は一緒じゃないと嫌なの。 その愛娘の言葉で離婚の危機にあった両親は一度はその絆を修復した。けれど、一度亀裂の入った仲はそう簡単には戻らなかった。 結局、彼女の高校受験が成功した後、両親はすっぱりを別れた。最後は既に二人の間に愛なんてどこにも無いことを真帆も理解していた。 あの時に別れていた方が良かったのではないか、と思えるほどの醜い幕引きだった。 真帆が森谷サナギを初めて見たのは高校に入ってしばらくしたあとだった。身長の高い彼はいつも真帆の視界に際立って入ってきた。 彼は真帆の思い描く王子様のような人間だった。 容姿も良かったし、運動神経も抜群だ。勉強はできないが、同じく勉強ができない真帆にとってはそれはそんな重要なことではなかった。森谷の良いところは何より性格にいやみがないところだ。女子も男子も彼のことは嫌ってはいないし、むしろ好いている。 真帆とサナギ君ってちょっと似てるよね そう言われて飛び上がりそうになったのは言うまでも無い。真帆の友達は本当にそう思っているかどうかは分からないがもし真帆と森谷が恋人になったらお似合いだと言った。 真帆はどこかで森谷も真帆の事をそんなに嫌ってはいない、むしろ好意的に感じていると思っていた。 何故なら森谷は真帆がしゃべりかければいつも笑顔で答えてくれたし、真帆のお願いを断った事が無かったからだ。 だから、森谷が蔵本と二人で勉強をしているという話を聞いて、真帆もすぐにお願いをした。森谷はすぐに承諾したし、蔵本も良いと言ってくれた。距離はきっと縮まっていると確信していた。 しかしある日からその勉強会は取りやめになってしまったのだ。 森谷に聞いてみると、森谷はとても落ち込んだ顔で真帆に話した。 蔵本と喧嘩した、と。 真帆は驚いた。 蔵本ハジメは真帆から見るととても生真面目で地味なクラスメートだった。その彼が華やかな森谷と一緒に勉強している事にさえ最初は驚いたのだ。けれど傍から二人を見ている限りではなかなか相性がよさそうに思えた。蔵本ハジメは世話上手だし、森谷は甘え上手だった。そんな二人が喧嘩をするなんてどんな内容なのだろうか。 真帆は何度も聞いたが、森谷は分かんないと言った。 「俺のしたことは蔵本の為にならないって……」 「ええ」 その言葉だけではどうも推し量れない。どうやって励ませばいいかも難しかった。 けれど、森谷がこんなに落ち込んでいるところを見るのは初めてで、真帆もそれに影響されるように落ち込んだ。 「サナギ君、真帆がいるから」 「うん……」 「真帆がここにいるからね」 森谷の手を握ると、森谷はそれを握り返した。親に捨てられた子供みたいだなと真帆は思った。それほどまでにショックを受ける森谷に少し驚きもした。 それからも教室で蔵本と森谷は一言も喋らなかった。森谷がしゃべりかけようとする度に蔵本が避けるのだ。何がそんなにも蔵本を怒らせてるのか真帆は理解できなかった。 森谷と二人でいる日々が増えていく。森谷はあれから一週間経っても未だ悲しそうに蔵本特製のノートを見つめていた。放課後も、蔵本が来ないと分かっていて教室で待っているのだから余計にかわいそうになる。 森谷は真帆と二人っきりの時間に勉強を続ける。 「だってさ、蔵本がいつか褒めてくれるかも」 寂しそうに笑いながら待つ姿に胸がやきもきする。 真帆は森谷と恋人同士になりたかった。蔵本の存在は忘れて真帆の事を好きになって欲しかった。その気持ちが外に出てたのかもしれない。 「サナギ君……、あのね、真帆」 「ん?」 森谷は顔を上げた。真帆は森谷の手を握ると、勇気を振り絞り目をつぶった。 キスが欲しかった。森谷も真帆を好きだという証拠が欲しかった。 「真帆ちゃん……?」 手が震える。 大丈夫、森谷だって真帆の事を嫌いじゃないはず。 そう心を静めていたら、顔に熱を感じた。 キスを与えられた。 頬に。 真帆が目を開けると、森谷は優しく笑んでいた。光が差し込んでいて彼の輪郭が見えない。 けれどぽんぽんと頭を撫でられて、くしゃっとかき混ぜられるとまるで彼に愛されてるかと簡単に錯覚できた。 これはOKという意味でいいのだろうか? たまらずに真帆は口を開いた。 「サナギ君は……真帆のことずっと好きでいてくれる?」 森谷がえっと口を小さく開いた。その顔には妙な驚きがあって、真帆がそんなことを言い出す意味を分かっていない様子だった。 真帆はもう一つ質問をした。 「ねぇ、真帆とずっと一緒にいてくれる?」 「え、……真帆ちゃん?」 森谷は眉を八の字にして唸った。真帆は森谷の様子を見て、席から立ち上がった。 「サナギ君、ひどい! じゃ、なんで今キスしたの!?」 頬とはいえキスはキスだ。その意味なんて一つしかないと真帆は思っていた。 「え? だって真帆ちゃん、してほしそうだったから」 「サナギ君、そんなのダメだよ! そういうのはちゃんと一番好きな人にしかしちゃいけないんだよ! じゃないと皆に対して失礼なんだよ!」 「え……」 「真帆の事好きじゃないのにキスするのは、真帆にとって悪い事なんだからね!」 真帆の王子様は。 −−真帆のことずっと好きでいてくれる? −−真帆とずっと一緒にいてくれる? この質問に即答してイエスと言ってくれる人間だ。 昔、今は離婚した母と父に同じことを聞いた。二人とも一つ目の質問には即答してくれたけど、二つ目の質問には口ごもった。 結局うまくいかないことなんて見えていたのだ。なのに、真帆がひび割れを知っていながらくっつけたからおかしいことになったのだ。 真帆はどんなにその人を好きでも、その人がその二つの質問にイエスと答えてくれないと恋人にはしなかった。できなかったのだ。でないと、心に疑念が生まれてしまう。 彼女の育った環境は自然と彼女をそういう風にしていたのだ。 真帆は森谷を残して、教室を去った。 目には涙をたくさん溜めながら、この恋は終わりだと真帆は自分に言い聞かせた。 *** 森谷サナギ(もりたにさなぎ)は与えられない子どもであった。 彼には一つ上の蝶子という姉が居た。母は殊更に蝶子を可愛がり、サナギを放っておいた。それは名前にも現れている。母は蝶子に姉妹を作ってあげたく思い、サナギを産んだ。生まれた子供には華江(ハナエ)という愛らしい名前をつけて、蝶と華の姉妹にしたかったと母は何度もサナギに言った。 サナギがサナギと名づけられたのもそんな皮肉をこめられてのことだった。 蝶にも華にもなれなかったサナギ。サナギはいつも母親に抱きしめてもらえなかった。甘いものもいつも蝶子には与えられて、サナギには与えられなかった。事あるごとに「男の子なんだから我慢しなさい」と言ってほったらかしにされていた。 最初はサナギも母の気を引こうと良い子を演じようとしたものだ。母は汚いのが嫌いであったから、まずマナーから整えようと思った。箸使いも自分で正したし、姿勢はいつも気持ちの良い直線を描くように立った。母親の顔を立てるために外に行っても行儀の悪い事は一切しない。勉強も頑張ったが、これに関してはどれだけやっても一人では上達できなかった。 しかしどんなに努力しようとサナギはいつまでもほったらかしだった。 高校に入り、バイトを始めて自分で自分に飴を買えるようになってからは今までのことが堰を切ったように我慢できなくなった。欲しいものはすぐに欲しくなったし、一方で周りを見ていて何かを欲しがっている時は全てをあげたくなった。 サナギは欲しがっていても与えられない人を見ているとまるで自分を見ているようになって可愛そうになるのだ。すぐにでもあげたくなる。満たしてあげたくなるのだ。 サナギが育った環境は彼をそうしてしまっていた。 蔵本ハジメはそんなサナギにとっては特異な存在だった。 最初、サナギは彼には嫌われていると思っていた。自分の欲しいものをすぐにくれない彼はきっと自分を好きではないだろうと安直な考え方から来た結論だ。 だが、蔵本はどうも違うらしい。 丁寧に作られたノートを見て、目からうろこが出たかと思った。だってこんなに時間のかかるものを嫌いな人間にするだろうか。彼が言う事全てが厳しいのに、もっと将来のことを考えると彼の言葉は自分を想ってのことなのかもしれないと思うようになった。 先日、蔵本がサナギと放課後に勉強をしている時。 不意にサナギは気づいた。蔵本が自分を欲しているのではないかと。今までサナギがつきあっていた女の子と彼は同じ顔をしてサナギを見ていたから。 だから欲しがるものをすぐにあげたのだ。なのに何故だろう。彼は怒って出て行ってしまった。 サナギのすることは蔵本の為にならない、とそう言って。 そしてつい今しがた、第二の事件が起こった。蔵本とキスしたこの教室で今度は真帆にキスをせがまれたのだ。 彼女がそれを欲しがっているのは一目瞭然だった。 心のどこかではやくあげなさいと誰かに急かされているようだった。実際、キスをもらえなかったら彼女は泣くのだろうか。それは昔飴をもらえなかった自分とかぶる。胸が痛くなるのだ。 けれど、唇にキスをすることはなぜか出来なかった。その理由はサナギにも分からなかったが、蔵本にはできたのに真帆にはできなかったのが不思議だった。 真帆の告白は饒舌だった。 一つ一つを確認されて、その答えにサナギは口ごもった。 −−サナギ君は……真帆のことずっと好きでいてくれる? −−ねぇ、真帆とずっと一緒にいてくれる? それに答えないとキスはしてはいけなかったのだ。そんなの知らなかった。 そしてその質問をきちんと考えた時、ずっと好きでいたいのもずっと一緒にいたいのも真帆でないことに気づいてしまったのだ。 多分、真帆と蔵本、二人にどちらにキスをしてはいけなかったのかと言えば、きっと真帆にしてはいけなかったのだ。 結局真帆も蔵本もサナギから離れてしまった。 サナギは欲しいものをあげれば誰も離れていかないと思っていたのに。 結局他人の本当に望むものなんて自分には分からないのかもしれない。自分の望むものだけが真実だ。 「難しいなぁ……」 違う、難しくない、簡単な事だ。けれど、どこかでそれは簡単すぎると思って自分でわざわざ難しくしてしまったのだ。 どこで自分は人のご機嫌をとるように育ってしまったのだろうか。誰も傷つけたくないのに。誰も自分みたいな思いをさせたくなかったのに。なのに、いつのまにか自分より他人の欲しいものに敏感になってしまった気がする。 「自分の欲しいもの……か」 小さい頃はちゃんと言えたはずなのだ。 今欲しい物だってちゃんと考えれば分かるはずだ。 サナギが欲しいのは、おそらく。 *** 10個目の包み紙を開けたところで、ハジメは屋上の床に倒れた。口の中が甘くなりすぎて気持ち悪い。よく森谷はこんな甘い飴を何個も食べられるものだ。 森谷と話をしなくなって1ヶ月以上経った。 きっと既に森谷と成瀬は恋人になったに違いない。 どうせ全部が手に入らないものなら、少しもいらないと思った。だって森谷は一人しかいないのだ。飴のように小分けにして人に配ることなんてできないのだから。 屋上から校庭を見下ろす。まだ部活でグラウンドに残っている生徒がたくさん居た。女子も数多く残っているのをハジメはぼーっと見つめていた。 「あ、あの子可愛いな」 目元が森谷にちょっと似ている。りりしい目元と黒髪のポニーテール。陸上部のようで、先ほどからハードルを何回か飛び越えてタイムを計っていた。 きっとハジメはああいう子を好きになれたらよかったのだ。 「どの子が可愛いって?」 背後に人の気配を感じて、サッと振り返った。聞き覚えのある声だと思ったら森谷サナギが立っていた。 「森谷……?」 様子を伺う。森谷サナギは静かに口を開いた。 「あのさ、蔵本」 また無視して出て行こうかと思ったが、もうこれ以上逃げても仕方ないような気がした。ハジメが森谷の顔を見上げた瞬間、森谷は頭を下げた。 「あの時はごめん」 「……うん、いいよ」 謝罪を受け入れて胸がスッと軽くなった。 戻ればいいのだ。ただのクラスメートだった頃に。 変な恋愛感情なんて捨ててしまって、森谷を芸能人とかだと思ってしまえばいい。そして実際の恋愛はそこらにいる可愛い女の子たちとするのだ。 「許すからさ、女子紹介してよ」 ハジメがそう言って笑うと、森谷は目を何度か瞬いた。 「あのポニーテールの子とか可愛い。 森谷、あの子と知り合いじゃない?」 そう言ってフェンスの向こうにあるグラウンドの一角を指差した。背後の気配が近くなって、森谷もグラウンドを見ているのかと思った。が、その時。 ガシャン 身体をグルリとまわされて、フェンスに押し付けられた。そして口に甘ったるい香りが広がる。 「ん……んん」 何故また森谷に自分はキスをされているのだろうか。 森谷はハジメの肩を放さず、口の中に舌をねじ込んできた。 「んん!」 森谷の閉じられた目を睨みつけるが、暴走は止まらなかった。息ができなくて苦しくなり、自分のとは思えない力で森谷の手を振り払った。 ハァハァ 激しい呼吸が二人分。 ハジメは口元を拭って、森谷を見つめた。 「もう……なんなんだよ、お前……」 「だって蔵本に女子なんて紹介したくねーよ、俺」 「はぁ?」 「蔵本はなんでそんな意地悪を言うんだ」 森谷は眉を八の字にして、口を尖らした。目元は真っ直ぐにハジメを覗き込んでいて、やましい事なんて何もないような顔をしている。 「なんでって……」 意地悪を言った覚えなんて無い。 だが、森谷はきっと自分がそう言えば女子を紹介してくれるような気がしていたのだ。前の時みたいに気軽な感じで。自分が望めばはいどうぞと言うんじゃないかと思っていた。 「お前、成瀬さんとつきあってるんじゃ」 「真帆ちゃんは違う」 はっきりとした口調だった。 「真帆ちゃんには悪いけど、真帆ちゃんじゃなかった」 言葉の意味が分からなかった。 成瀬じゃないなら他に目星でもついているのだろうか。 森谷はハジメの表情を読んだようだ。ぐいと顔を近づけて、ハジメの顔を正面に捉えた。 「ねぇ、どういえば分かってくれる?」 森谷の瞳がゆらゆらと揺れる。 「は?」 「俺、蔵本が好きみたいなんだ」 「は?」 「俺が欲しいの、蔵本みたい」 クンクンと鼻を近づけられ、そのまま口をつけられそうになった。 「ちょちょちょ! ま、まてストップおすわりステイ!」 またキスされる!? と思って、慌てて手で制した。 森谷は至近距離を保ったまま、恨みがましくハジメを見つめた。 「……蔵本は俺のこと好きなんじゃないの?」 「え、あ……そうだけど」 「俺が蔵本を好きになったらダメだった?」 「いや、そうじゃなくて」 何故かハジメが泣けそうになった。 今日の森谷だってきっと今までみたいにハジメが欲しがっているものを察してそう言っているに違いない。 そんな考えがまだ付きまとう。 もしそうなら、そんなのまるで自分が森谷を操っているようだ。こんなのただの一人遊びじゃないか。 「お前、軽い気持ちでつきあったっていい事なんて無いんだぞ?」 「なんで? 俺、蔵本のこと本気で好きだと思うよ」 「そんなのお前分かってないだけだろう。 俺はちゃんと我慢できるんだ。 俺は別にお前が俺を好きになってくれなくても大丈夫なんだ。 本当の本気じゃないなら放っておいてほしいんだ」 だって、そうやって躾けられてきたんだから。 フルフルと唇が震える。好きでこんな風に躾けられたんじゃないけど、という言葉を飲み込んだ。後々の事なんて考えずにただ今目の前にあるものに喰らいつけたらどんなに幸せだろうか。 そんな考え方今までしたことなんて無かったのに。 「なんで我慢するの。 我慢しないでよ」 森谷は少しいらついた口調だった。 「それとも、そうやって俺のこと遠ざけたいの」 「え」 その途端、ガシッと抱きしめられた。再びフェンスがカシャンと鳴り、小刻みに揺れた。森谷の大きな腕がハジメを包み込んだ。そして、背中にひんやりとした冷気と森谷の体温を感じた。 「え、何」 背中に入れられた森谷の手が上半身に上ってくる。それはスーッと背中を一通り撫でてから今度はズボンの中へと入り込んだ。 「ちょ! 何するん……」 「だって蔵本好きだって言ってるのに信じてくれないから」 「ちょちょちょ、だからって、こらこらこら」 「もう心に聞かない。 身体に聞く」 ハジメは目を大きく見開いた。 なんてことを言うんだ、お前は! ハァハァと吐息を荒くする森谷に本当に貞操の危機感じ、瞬速で手が動いた。自分の靴を足から引き剥がし、それで森谷の頭をはたいたのだ。 スパコーーーーン 森谷は地面に落ちた。ハジメは自分の身体を守りながら、3歩後ろに下がった。 しばらくしてから、森谷は顔だけこちらを向いた。やはり不満げな表情だ。 「お、お前何気に危険人物だったんだな……」 ハジメの言葉に森谷は眉をくねらせた。 クゥンと言う幻聴が聞こえてくる。 「……嫌いになった?」 胸がきゅうと締め付けられる。 「……なんねぇよ、バカ」 唐突に理解したのだ。 違う、俺が悪いのだ。 こいつはちゃんと本気で話しているのに。俺がちゃんと信じてあげられないのがいけない。 でもだってもし今本気でも、そんなの将来どうなるかなんて分からないじゃないか。ずっと好かれる確証なんて無い。今だって森谷は本気で勘違いしているかもしれない。 そんな事を考えてたら尻ごみだってしたくなる。 ぐるぐると頭の中で駆け巡っていたのが顔に出ていたのかもしれない。森谷は小さな声で呟いた。 「蔵本って臆病だ」 「……悪かったな」 ムッとしながら答えた。 森谷は悔しそうに俯いて、拳を固める。 「ひどいよ。 蔵本の臆病のせいで俺が損する」 「損?」 「両思いなのにキスすらできない」 ドキッと胸が鳴った。 肩を両手で握られる。ぎゅっと強く握られたところから熱がじんわり伝わった。 「蔵本は……」 スンと息を吸う音がした。 「俺のためとか言ってただ本当は逃げてたいだけなんだ」 「……そんなんじゃ」 「……ごめん。 俺、さっきからひどいこといっぱい言っている」 森谷の顔がより深く俯く。 違う、謝らせたいんじゃない。森谷が正しいのだ。 俺たちはまだ17才だ。 少しくらい回り道したって、もしそれが目先の利益にしかならなくたって。 そんなのどう転ぶなんてまだハジメたちには分からない事なのだ。何が俺のためになってそうじゃないかなんて。 そんなこと言ってちゃ何も踏み出せない。 肩に置かれた手をぎゅっと抱きしめた。 「な、森谷……」 森谷が顔を上げた。 「俺、お前が好きだ。 お前になら遊ばれてもいいよ」 「何それ」 ハジメは臆病で卑怯な手を使った。 予防線を存分に引いてそろそろと一歩踏み出したのだ。それがハジメにとって精一杯の一歩だった。 けれど、森谷は片眉をあげて、心外そうに口を尖らせた。 「言っておくけど、俺だって蔵本にならひどいことされてもいいよ」 森谷の言葉は素直で誠実だ。 「人が欲しいものじゃないんだ。 自分が欲しいものが大事だから、もし蔵本が俺のこと好きじゃなくても、俺が好きだから今はそれでいいんだ」 まるで違う。森谷の言葉には予防線を感じない。 森谷は彼の答えを出して進んでいるのだ。 考え方が全く違う。当たり前だ、育った環境が全然違うのだから。でも同じところに辿り着いた。つまりそういうことなのだろう。 「後悔は、しちゃダメだよな」 「うん」 森谷の服を親指と人差し指だけでキュッと握る。 求めあったのは、惹かれあったのは何故だろう。 違う風に育った中でこうやって出会って、違いに気づきながらも離れたくないのは何故だろう。 多分、全く一緒じゃ無理なんだ。 違うから、気づくから、好きになるのだろう。 「お前なんてただの観賞用だと思ってたのに」 ハジメがふっと笑みを浮かべると、森谷は意味がわからなさそうに首をかしげた。 鳥の一群が暗くなる空を横切るのを見て、ああ、もう夜が近いのだとやっと気がついた。 その夜が来る前に、暗闇が降ってきた。影を落とされて、もう一度キスされると気づく事ができると、今度はちゃんと目をつぶった。 *** 人生の答えを見つけるのは難しい、と朝のホームルームで講釈たれた教師がいる。その教師は森谷とハジメ、そして成瀬真帆の高校3年の時の担任だった。 君たち若者が思っているよりも答えを見つけることはずっとずっと難しいんだよ、と頭垂れて言う彼はおそらくその時重大な分岐に立たされていたのだろう。 人生の答えを見つけるのは難しい。 それは多分自分一人じゃ見つからない答えだからだろう。いや、それは自分が見つけた答えが他人の答えと違うからだろう。いや、それとも答えが変わってしまってもそれはそれでそれがまた答えとなるからだろう。いやいや、答えが無いことが答えだからだろう。 人によって答えの導き出し方が違うのだ。 そんなことに気づいたのは高校生を卒業した頃。 「真帆ちゃんはきっと良い答えを導いたんだろうね」 答えを導き出す事には苦悩が伴うと言った教師はそれでもその後きっと彼の答えを見つけたのだろう。晴れ晴れとした表情で、ハジメや森谷が卒業した次の日に「成瀬真帆と結婚する」と宣言した彼は成瀬を肩に抱いて、笑った。 「一生傍に居て、守りたい存在なんだ」 隣の成瀬は頬を桃色に染めて、彼に寄り添っていた。 成瀬真帆がその教師と付き合いだしたのは、ハジメと森谷が付き合いだして3ヶ月経った後のことだった。1年近く経った今、それで結婚にまで辿り着いてしまったのはハジメや森谷から見たらすごい事だった。 実際、ハジメと森谷の方は喧嘩が絶えない毎日だ。 培われた価値観の違いはそう簡単には理解できないものだ。女友達とのメールの仕方や、日頃の礼儀やマナー、寝る時の豆電球はつけるか否か。 「俺もさ、蔵本と一緒に居て思ったんだ」 ズズッと手元のグラスのストローをぐるぐる回しながら、森谷がふと口を開いた。そんな仕草でさえ、ハジメはイライラしながら見ていた。 ストローで遊ぶのはハジメにとっては喜ばしくない所作だ。 「俺とお前ってやっぱ根本的に違うなって」 「そうだな」 ハジメは大きく頷いた。 森谷はハジメの視線に気がついて、ストローをまわすのをやめた。 森谷は居心地が悪くなると手癖が悪くなる。普段の仕草はハジメから見ていても凛としていて美しいというのに。それは付き合い始めてから見つけたたくさんの違いの内の一つだ。 ハジメがじっと森谷を睨むと、森谷はあはっと口を開けて笑った。 「でもさ、だからはまり込んじゃうのかな。 お互いのツボにパコッて」 育った環境だって、性格だって、感じ方だって、やっぱり自分とは違うんだなって何度も途中で気づくんだけど。 でも好きでいられるのはその違いがあるからこそだと思うんだ。 森谷はそう言って楽しそうに笑った。ハジメもどこか悔しそうな顔をして頷く。 それでもやはり小さな喧嘩は耐えない。こだわりはお互いあるし、譲れないものだってあるのだ。 例えば。 春から二人で住む部屋のカーテンの色は何色にするか、とか。 おわり 自分と人との違いを見つけて、大人になるお話でした。 written by Chiri(3/5/2010) |