Sweet and Spoilt(1) 1月の凍てつく夜に生まれた彼は年の始めに生まれことからハジメと名づけられたが、また一家の初めての男、長男でもあった。箸使いも少し持ち方を間違えると、母の手がはたきにやってきたし、姿勢を悪くしているとものさしで背中をたたかれたこともあった。チョコレートやキャンディー類は虫歯になるから、と極力食することを禁止されていたが、それでも母はテストで良い点をとったりしたらご褒美として食べることを許可した。 ――母の口癖である。 「私はあなたをいじめたいわけじゃないのよ。 ただ、あなたのためだと思うのよ」 そう言いながら、母はハジメの頭を何度も撫でた。 ものさしで叩いたあとは必ずハジメの手の甲に丁寧に軟膏を塗る母の目は静かで決意が固そうに見えた。 母が揺らぐことなど、ハジメは見たことが無かったのだ。 「ママは神様じゃないけど、あなたは私の子どもなの。 義務教育の間は私の言うことを聞きなさい」 たとえば、公共の場でお菓子を食べたり、音を立ててジュースを飲んだり、と他の子が普通にしていたことがハジメには到底できなかった。 だが、母はハジメが中学を卒業したところで、全てのしつけを終えた。 病院で弱る母は笑みを浮かべながら、ハジメの手をなでた。部屋に差し込む光は一層母の顔を白く見せた。 「これからはいくらでもチョコを食べていいわよ」 フフッと笑う彼女に目じりには幾つかしわが寄っていた。まるで絵に描いたような暖かい微笑みなど彼女の顔に見たことなどなかったというのに。 「きっとハジメならもう分かるでしょう。 世の中には美味しいものも楽しいものもたくさんあるけど、誘惑に負けるとひどいことになることもあるのよ。 ……ママみたいに、ね」 若い頃は母も酒とタバコに酔いしれた日々があった、と彼女は言っていた。 「ママみたいになっちゃダメよ。 長生きしてね、ハジメちゃん」 初めて母がハジメをちゃん付けで呼んだのは彼女が無くなった一週間前だった。女の子みたいだからそう呼ぶのをやめろよ、なんて嘘でも言えなかった。ちゃん付けで呼ばれてハジメは甘やかされているようで嬉しかった。 ハジメは母を恨んだことは無かった。頭のよい子どもだった彼は中学に上がる頃から周りの子どもたちが漫画の読みすぎで目を悪くしたり、甘いものの食べすぎで虫歯になったりするのを見て、自分はそうならないようにしたいと母と同じように思うようになっていた。だからといって全てを禁止するわけではなく、友達と会ったり遠足に出かけたりする時は適度に周りとあわせていたところが彼の賢いところだった。 それよりも彼が一番に欲しかったものはぬくもりだ。高校に上がって、母がいなくなった後の日々はどこか風が突き抜けていく感覚がした。 ハジメが森谷サナギ(もりたにさなぎ)の姿を初めて見たのは、中学の頃だ。ハジメが通う中学はマンモス校だった為、森谷と同じクラスには一度もならなかったし、話したことも無かった。けれど、森谷はいつも何人もいる男子生徒の中で頭一つ分身長が高かった。しかもその顔が傍から見ると成熟して整っている男の顔だった為、より一層深くハジメの脳に印象づいた。 同じ高校に上がったのだと気付いたのは高校の始業式の日だ。他の男子の身長が伸びてきたといえど、森谷は一層背を伸ばしていて、やはり目立っていた。中学の時とは一風変わっていて、頭髪を茶色にして逆立てていた。それでもしっかりとした眉と鼻筋が硬派な印象を崩していなかった。 母を亡くしたばかりだったハジメは高校受験に失敗した。自分がそこまで感情豊かな人間だと思ってはいなかったが、それでも母が死んだ次の日に本命の高校の受験などには行く気になれなかった。一つレベルを下げた高校の始業式に、ハジメは森谷と出会った。見慣れない校舎の中で見つける中学から見慣れた人間の顔はどこかでハジメを安心させた。 2年で森谷と同じクラスになった時は、やはりハジメはどこか心の奥で喜んだ気がした。存在を知って5年目にしてやっと同じクラスになれたのだ。 その頃には母がいた頃とは暮らしぶりも変わっていた。父は母以外の恋人を作っていたし、ハジメは一人で暮らせるほどに生活力を上げていた。それでも厳しくしつけられていた日々を懐かしく思うのは、母のしつけの下に愛情があったからだろう。母がいた日々に見ていた顔を母がなくなった後でも見ることは懐かしさと安堵をハジメにもたらした。 森谷はもともとの顔が良いこともあり、中学から女子にはもてていた。高校に入るとそのモテぶりに拍車をかけて、彼女がいない時期など無いのではないかといった風だった。だから、それを踏まえてハジメは思っていた。 森谷は観賞用の人間だと。 見ると心が豊かになる。それは例えばアイドルや芸能人を見ている時の気分に似ている。 1学期の最初の頃、ハジメは初めて森谷と隣の席になった。 森谷は勉強があまりできない。最初は授業を聞こうという姿勢が見えるが、そのうちに明らかに持っているペンを回し始める。その手つきがやたらに綺麗だ。ハジメの手の関節は肉に埋まれてあまり見えないが、森谷のは違う。指はしなやかで、そこにポツポツと関節が確かに見える。爪の形は綺麗な長方形で、爪の先も綺麗に整えられている。 (手が……綺麗なんだよなぁ) ぼーっとハジメは森谷を見つめた。 森谷の美しさは手だけではない。仕草も美しいのだ。 厳しくしつけられたハジメの眼鏡に叶う人間はあまりいない。森谷はその数少ない人間だ。背筋がピンと伸ばされているから、身長がまた高く見えるのだろう。箸使いもとても綺麗だ。それをあの長く細い指でするものだから余計に惚れ惚れしてしまうのだ。 「蔵本、これ欲しいの」 「え」 次の瞬間、口元にひんやりとしたものを感じた。 それが飴だと気づかなかったのは、森谷の顔がわずか5センチのところにあったせいだ。 「うわ!」 叫んで、後ろにあとずさったら口に押し付けられていた飴が宙に浮いた。それを森谷は手でキャッチすると、親指と人差し指に挟んだ。 「ごめん、ずっとこれ見てたから欲しいのかと思って」 「え? あ、いや、見てたけど」 それは森谷の手であって、手の中にあった飴ではなかった。 「なんだ。 やっぱり、欲しいんだ」 森田はくしゃっと破顔するとまたその手をハジメの口に持っていった。 「はい、あーん」 魔法でもかけられているかのように口を開けると、次の瞬間甘みが広がった。 (うえ、これすごい甘い……) 母がいたら、絶対に食べさせてもらえない類の飴だ。バターと砂糖だけでできたような糖類の塊。喉に砂糖を直に詰められているような気分になる。 「おいしい?」 端正な顔に聞かれて、うんうんと頷く。心の中ではそんな風になんて思えない。甘い飴なんてハジメはほとんど食べないのだ。食べるとしてものど飴やミントキャンディーなどの類のものしか基本口には入れない。 「俺、甘いのすごく好きなんだ」 森谷は、まるで世界の皆が自分と同じ嗜好だとでも思っているかのように満面笑みとなった。 飴をなめながら喋るなんていうことはハジメはしたくなかった。何もしゃべらずに森谷の顔を見る。森谷の口の中の飴はとっくになくなっていたが、吐息に甘ったるさが残っていた。 「ねぇ、俺たち初めてまともにしゃべった」 うん、と首を縦に振る。 飴がなかなか溶けない。何かを言いたくてもそんなマナーの悪いことなんてしたくない。 森谷はだんまりのハジメを特に気にしない様子でにこにこと笑った。 「同じ中学なのにさ。 今までずっとしゃべったことないなんて不思議だな」 (あ、ちゃんと知ってたんだ……) ハジメは森谷の横顔を目を細めて見つめた。 同じ中学に通っていたこと。ハジメが森谷を知っていたように森谷を知っていてくれたのだろうか。 目の前には自分がずっと観賞用だと思っていた美しい顔がある。 (……やばい。 これは、観賞用じゃない) テレビの向こうの芸能人とかではないのだ。ハジメは森谷を知っているし、相手もハジメを知っていてくれる。触ろうと思えば触れる距離。飴を手で口に入れてしまえる距離。 途端に胸が鼓動した。 (やばい、やばいって……) 唇と胸に甘ったるさが残った。 とても厄介な感情に捉えられた自覚はあった。 *** それからハジメは森谷とちょくちょくしゃべるようになった。それは友達とまでもいかない、クラスメートの会話だ。 例えば、森谷が教科書を忘れた時にそれを一緒に見たり、例えば森谷が授業中に寝ている時に何度も起こしたり、とそれくらいのものだ。 それでもそんな程度の会話がハジメの胸を温かくした。 「何、森谷また宿題やってこなかったのか」 ハジメは古典の授業の前に急いで前回の宿題をやっている森谷を見て、ため息をついた。 「……うん、俺家でやっても分かんないからすぐ寝ちゃうんだ」 へらっと笑う森谷の眉をくにゃりとたれ下がっていた。そんな顔も愛嬌があって良いな、というのは心の中にしまった。 「仕方ない奴だな……」 はぁっとため息をつく。 すると、森谷はバッと身を起こした。顔にはキラキラと音を立てて期待が見えるようだ。 「え? じゃ、蔵本、宿題見せてくれるの?」 「はぁ?」 誰がそんなこと言ったんだ、と言う間もなく森谷は手を差し出した。ノートをくれ、とせがんでいるようだ。 「ダメだ、そんなのお前の為にならないだろ」 ハジメはノートを身体の後ろに隠した。森谷の目が大きく開く。 「なるよ! 今日、俺当たるんだから」 「そうじゃなくて、根本的に理解しないと意味が分からないだろ」 「そんな!」 キーンコーンとチャイムが鳴る。森谷はああぁっと変な雄たけびを上げた。 教師がクラスに入ってきて、日直が起立の合図を出した。 その間、森谷は恨めしそうな顔でハジメを見つめていたが、ハジメはそれを見ないように顔を横に逸らしていた。 「ひどいよ、蔵本……」 小さい子供が飴をもらえない時のような声だ。泣き出すのを我慢しているかという程の。 その日、森谷は結局答えを言えなくて授業中立たされていた。 森谷はその日はもうハジメに声をかけなかった。怒っているのか、愛想が尽きたのか分からないが、ハジメはそれを心の底だけで悲しみ、顔には出さなかった。 (だって、そうじゃないか) その場で答えを教えるだけじゃ何の解決にもならない。 母の躾の賜物か、ハジメは自分にも他人にも厳しく育ってしまった。 翌朝、ハジメが教室に入ると、既に自席に着いていた森谷と目があった。森谷はあからさまに頬を膨らませて口を尖らしていた。まだむくれているのか、子供みたいな奴だなと冷静に分析しながら森谷に近づいた。 「おはよう、森谷」 「……おはよう」 しぶしぶと返事する森谷に少しだけ安堵した。たったあれだけの事だが、もう口を利いて貰えなくなったかもしれないと一晩頭を悩ませた。 「これ、やるよ」 ハジメはそう言うと、ノート2冊を森谷の机に置いた。 「え、何これ?」 「教科書と問題集を今学期習う範囲だけ詳しく解説しといた」 「えええ」 「わかんないところあるなら俺に聞けよ」 森谷はノートに手を伸ばす。あの綺麗な指がノートを開き、ページをめくるのをハジメはじっと見ていた。 「これ、昨日作ったの?」 「うん」 森谷はえええと声をあげた。 そしてしばらくするとオロオロとハジメの顔を伺う様に覗いてくる。 「何」 「え、だって」 俺、昨日蔵本のこと無視したのに、と小さく声が聞こえる。 ハジメは口の端を少しだけ上げて笑った。 「別にいいよ、あれくらい」 「俺、蔵本に嫌われてると思ってたんだ」 ハジメは眉を顰めた。どこにそんな要因が、と思うが、確かにハジメは他人に厳しいところがある。 「だって、俺が寝てるとすぐ起こすし。 教科書忘れるといつもちょっと怒ってるし。 昨日なんて宿題見せてくれないし」 森谷はなんて甘えた子供だろう。 ハジメははぁっとため息をついた。 「それはお前がちゃんと授業を聞かなくて、忘れ物を簡単にして、その場限りで答えをもらって良しとしようとしていたからだ」 「……だって」 「そういう癖は今のうちに治さないと大人になってからじゃ遅いんだからな」 「蔵本、厳しいよ……」 森谷は俯いた。手がもじもじと揺れている。 「お前ちゃんと大学行けるの、このままで」 「分かんない……」 「他にやりたい事あるなら別だけど、もし何もなくて親も行かせてくれるんだったら大学行けよ。 所詮日本なんてまだまだ学歴社会なんだからな」 「蔵本って……」 家族ドラマで見るお母さんみたいな人なんだね。 森谷はそう歯を見せて、楽しそうに笑い声を上げた。 「厳しいけど愛情ある感じ」 「ばっ……!!」 急に見透かされているようになって焦った。森谷はハジメの様子を楽しんでいるようににこにこと見ていた。 「っかじゃねーの! 愛情なんてねーよ!」 「うそうそ、好きなくせにー」 ツンツンとハジメをつついてくる森谷は大きな身体を折り曲げて、まるで大きな子供だ。 (ああ、もう何こいつ……かわいい) 森谷がにこにこと笑うと心が優しくなる。優しくなったり高鳴ったり和んだり大変だ。 ずっとこんな気持ち、ならなかったのにな。 「森谷、勉強……教えてやろうか」 勇気を出してそう言ってみると、森谷はきょとんとした表情になった。 「え?」 「嫌にならないように毎日放課後の15分だけ」 まるでどこかの通信教育の謳い文句みたいだ。 こんな誘いじゃのらないかな、と思ったが思いのほか森谷は目を輝かせた。 「やるよ、俺」 森谷がそう答えると思わなかったから、ハジメは目を何度か瞬いた。 森谷はまた朝に飴を舐めていたのだろうか。 吐息が甘く、頭がくらくらする。 *** 森谷に勉強を教えるようになって、何故ハジメが森谷をそんなに気に入っているかが分かってきた。 森谷はやはりハジメが思う意味での躾がきちんとされているのだ。 勉強はできないが、背筋はいつもピンとしていて見ていて気持ちが良い。飴はいつも持って歩いているが、舐めながらしゃべることは決してしない。舐めている間はひたすらもくもくとそれを舐めて、決してガリガリと噛み始める事もしない。鉛筆の持ち方も美しく、鉛筆の後ろを舐めたり噛んだりもしない。消しゴムで遊んだりもしない。 「森谷って厳しくしつけられているだろ?」 教科書を机に広げてノートに文字を綴っていた森谷が顔を上げた。 「え?」 教室には西日が差し込んでいた。最初は放課後の15分と言っていたのに森谷は好んで残りたがる。マンツーマンで勉強を教えてもらう状況が好きなようだ。 「そんなこと無いよ、うち結構放任主義だから」 「え、そうなんだ」 今までの仕草や立ち振る舞いを見ていても不思議に思う。 森谷は手元にある飴の包み紙を見ながら、静かに笑みを浮かべた。 「でも欲しいものはなかなかもらえなかったかなぁ」 森谷の表情はどこか昔を懐かしむようでそれでいて思い出したくない事があるようだった。そんな表情に気づいていながら、ハジメは何も言う事ができなかった。 森谷は包み紙を置くと、ハジメの目を見た。 「蔵本は厳しく躾けられたんだ?」 「うん、うちは厳しかったよ」 やっぱり、と言って森谷は笑った。 「蔵本は親のこと嫌にならなかった?」 「……ならないよ」 母親の顔を思い出す。病院で見た紙のような白い顔にはいつも優しい笑みが浮かんでいた。ハジメちゃん、と甘い声で囁いていた。 「そうなんだ?」 「うん。 だって……」 この間の森谷じゃないが、厳しさの裏に愛情があるのをハジメは知っていた。親が言わなくてもちゃんと分かっていたのだ。隠されていたものはちゃんと伝わっていた。 「そうなんだ、そういうのもあるんだ」 森谷は静かに笑っていた。 誰もいない教室で二人っきり、静かな空間だった。まるで過去の記憶を懐かしむ為のようなセピア色の優しい教室だった。 「え? 森谷と蔵本で二人で放課後勉強してんの?」 森谷とハジメが二人で勉強をしている噂はある日をきっかけに一斉に広まった。 一度、忘れ物を取りに来たクラスメートのせいで、二人の秘密の勉強会は秘密ではなくなった。 ハジメはどこかでその二人きりの空間を秘密にしておきたかったが、森谷はそうじゃない。他のクラスメートに嬉しそうにハジメ特製のノートを自慢していた。 「サナギ君、最近勉強ができるようになってきたよね」 そうやって森谷に話しかけていたのは同じクラスの成瀬真帆(なるせまほ)だ。森谷は嬉しそうにまたハジメの特製ノートを見せている。 「うわあ、すごいね、これ! 蔵本君が作ったの?」 「え……うん」 成瀬がいきなりハジメの方に話しかけてきて、ハジメはびくっとした。成瀬真帆は学校でも可愛い方の部類だ。今までしゃべったことなど無いのに、真帆はにこにこと満面の笑みでハジメに呼びかけた。 「真帆、こんなの初めて見た! 蔵本君ってすごいのね!」 うふふって笑う成瀬真帆は男子からも女子かも好かれるタイプだ。成績は森谷とどっこいどっこいで、愛嬌や天然ぶりも森谷と似ているかもしれない。 「いいなぁ、このノート。 サナギ君、うらやましー」 へへっと笑う森谷はどこか誇らしげだ。 「蔵本おいしい奴だな、お前! 真帆ちゃんと話できて」 他のクラスメートにわき腹を小突かれたが内心は複雑な気持ちだ。 成瀬真帆は明らかに森谷を好いていることはクラスの皆が知っている。自分が成瀬と話ができたからと言ってなんだというのだろうか。 それよりも森谷と成瀬が楽しそうに話している方が気になる。 前はこの二人を芸能人のような目で見ていたからなんとも思わなかったが、今はチリチリで燃える何かを胸の中に感じる。 真帆は教室の喧騒の中で何かを森谷に囁いていた。 森谷はそれに対して笑顔で応対していた。 (何これ……凹む) 自分が作ったノートだって本当は他の人に見せてほしくない。触って欲しくない。まるで子供みたいに癇癪をあげたくなる。 でもこんな感情は醜くて恥ずかしいものだ。外に出すのは躊躇われる。 だから、ハジメは小さく息を呑みながら、平然な顔を装った。 放課後になると、森谷が「あのさ」とハジメに声をかけてきた。 「何?」 ハジメが森谷を見ると、森谷は少し口ごもりながら、教室の隅を指差した。指差した向こうには成瀬真帆が立っていて、ノートを持って伺うようにこちらを見ていた。 「真帆ちゃんも一緒に勉強していい?」 (え……) 無意識に森谷に非難の目をむけていたようだ。森谷は慌てて弁解しだした。 「え、あの、ダメだった?」 「いや……」 まさかダメだなんて言えない。森谷は間髪入れずに言葉を挟む。 「だって真帆ちゃんが一緒に勉強したそうだったから」 成瀬はちらちらとこちらを見ている。ここで断ったらどう考えてもこちらが完全な悪者だ。 「だってなんかかわいそうだろ? な?」 「……いいけど」 大人のフリを上手く出来ただろうか。内心でむくれながらそう考える。 森谷が成瀬にOKサインを送ると、成瀬は嬉しそうにハジメの方に寄って来た。 「蔵本君、ありがとう! 真帆もね、成績本当にひどいの。 教えてもらえて良かった!」 天使のような笑顔にハジメは仕方なく笑顔で応じた。 成瀬は本当に可愛い女子だ。普通の男子だったら飛び上がって喜んでいる所だろう。むしろ自分の今の感情の方がおかしいような気がしたのだ。 もしかしたら森谷に気持ちが向いているのを戒めようと神様がしているのかもしれないな。いや、それをしようとしているのはひょっとすると天国にいる母親かもしれない。 「うん、……俺も良かったよ」 力なくハジメが言うと、真帆と森谷は嬉しそうに手を合わせて喜んだ。 きっとこの二人はこのまま行くと恋人になるような気がした。それを間近で見るのはきっとつらいだろうが、今までだっていろいろあったのだ。大丈夫だろう。 気持ちを奥底にしまえばいいだけだ。 *** それから何度か森谷と成瀬を同じく教えるようになって、成瀬の成績も次第に上がってきた。森谷に特別に作ったノートを成瀬のためにも同じように作った。 成瀬はハジメに対してとても感謝して、毎日楽しそうに放課後に残っていた。何より彼女の好きな森谷がそばで一緒にいることが楽しいのだろう。森谷の言葉に一挙一動する様子は確かに愛らしかった。 その一方でハジメの気持ちはどんどんと冷えていった。男なんて好きになったことなんてなかった。それどころか人に恋をした事すらまだ無いというのに。 好きになってはいけない人を好きになるのは苦しいのだな、と森谷に教えながら思う。 もしかしたら好きになってはいけない云々ではなく恋をするだけでここまで苦しいのかもしれない。 勉強会を行うようになって1ヶ月くらい経った頃である。 「今日、真帆ちゃんおうちの用事だって」 成瀬が急な用事があるのか慌てて教室から出て行くのが見えた。森谷に声をかけられて、「あ、そうなんだ」とハジメは答えた。最初の頃よりもハジメの森谷に対しての態度は冷たくなっていた。というよりも意図的にそうしていた。 「じゃ、今日の集まりはやめるか?」 「え? なんで」 森谷は驚いてハジメの顔を覗き込んだ。 「二人でやろうよ。 最初の頃はそうだったじゃん? むしろ二人の方が楽しいじゃん」 「お前なぁ……」 「ね?」 人の気を知らないで軽々しく言ってくる森谷を睨む。 右目だけウィンクした森谷に背筋がぞわっとなる。 (本当にウィンクする奴なんて初めて見た……) そしてそれに引くどころか胸が高鳴っている自分が一番気持ち悪い。 そんな風に始まった勉強会だが、今日は勉強をする気になれなかった。 教室はオレンジ色に染まり、目の前には毎日夢に出てくる森谷と久しぶりの二人きりだ。森谷は一生懸命ノートと教科書を並べて字面を追っている。 そんな森谷のつむじを見つめながら、はぁっとため息をついた。 一体これからいつまでこの生殺しの状態でいないといけないのだろうか。 それなら一層、ここで言ってふられてしまった方がいいのではないだろうか? そんなことを思いながら、森谷のつむじを見つめていた。 ふと、森谷の頭が起き上がった。 「……蔵本?」 森谷の顔が見えても、ハジメは森谷を見るのをやめなかった。目の前にある森谷のこの顔に一言言ってやればいいのだ。 好き、だと。 「森谷……俺さ」 「……え?」 「俺……」 このまま森谷の瞳をそらさないで、ただ言えばいい。 言えばいいのにその最初の一言が出てこない。 森谷は不思議そうにハジメを見ていたが、やがてハジメの想いを理解したかのように目を細めた。 森谷の顔が動いた。 ハジメが何かを言おうとするその前に、森谷の目が閉じられた。ずっとその瞳を見ていればいいと思っていたのに、森谷の顔は近くなりすぎて見ていられない。 唇に何か別の熱を感じた。 それが森谷の唇だと気づいたのは、森谷がまた顔が見られるほどに離れたあとだった。そしてその瞬間、顔全体が真っ赤に燃えたのが分かった。 「蔵本、顔真っ赤」 森谷はそう言ってへらっと笑った。 その瞬間、ぴきっと何かが切れた音がした。 バキッ 森谷の頬をグーで殴ると、森谷の顔が一瞬よろけた。 「いたた……蔵本、なんで」 「お前こそなんでだよ!」 自然と涙目になっていた。そんなことして欲しくなかったのに。なのになんでそんなことを。 「……だって蔵本がして欲しそうな顔をしてた、から」 お前は! 熱が湧き上がるのが分かる。 「ふざけんな!」 軽いのだ。キスの重みも。言葉も、全てが。 多分、初めて森谷がハジメに飴をあげた瞬間のようなことだ。人に飴をあげるのと同じくらいの軽さに森谷はハジメにキスをした。 森谷ははずっとそういうところがあると感じていた。 森谷は人の望みをかなえようとするところがあるのだ。成瀬が勉強を教えて欲しそうにしていた時、森谷はすぐにそれを感じ取って勉強会へと誘った。ハジメが飴が欲しいのかと思った森谷はすぐにそれを叶えようとした。 「そうだよ、俺はお前が好きなんだよ! でも今お前が俺にキスしても何の意味が無い! お前のそれは俺の為にならないんだよ!」 その場限りの答えなんて欲しくない。 そんなの何の意味なんて無い。 何の解決にもならないんだ。 夕日色の教室を飛び出て走った。 母親の言葉を思い出す。 −−世の中には美味しいものも楽しいものもたくさんあるけど、誘惑に負けるとひどいことになることもあるのよ。 森谷のそれはきっとこのことだ。 どうせ森谷に愛情なんて無いのに、期待なんてしたくはなかった。 next 育ってきた環境が違うから〜♪ written by Chiri(3/5/2010) |