SKIP


元々、スキップというあだ名をつけたのは俺だった。

小学4年生になったばかりの頃。
転校してきたアイツが誰とも話に交じれないのを見て、見かねて俺が最初に声をかけた。俺だってそこまで明るい性格ではなかったから、ただ不器用に自分の名前を言って、よろしくと手を差し出しただけだった。
でもそれだけでアイツには十分だったようだ。
アイツはそれ以上に無いというほど嬉しそうな顔で「うん!」と笑った。

アイツはいつも俺の後をついてまわった。それこそ金魚の糞よろしく、密着度で言えば馬のたてがみ位だった。いつも俺を追っていた足取りがとても軽く、それがまるでスキップしているように見えたから俺はそれ以来アイツをスキップと呼ぶようになった。

スキップはまるで犬みたいだった。犬みたいに愛嬌があって、犬みたいに俺についてまわる。尻尾がないかわりに足取りでその感情を表現する。
スキップしていれば楽しいときだ。逆にトボトボ歩いていれば気分は底辺、といった具合だ。
俺はスキップが嬉しそうに駆け寄ってくるのを見るのが好きだった。スキップという名前もただ一つ俺がアイツにあげたものという点でとても気に入っていた。
スキップはよく笑い、よく泣く。俺自身がそこまで感情表現に長けていなかったせいもある。俺はスキップを見ていると、少しだけ幸せに触れたような気がしたんだ。
そんなスキップだから、そのうちどんどんクラスの奴と馴染んでいった。最初になじめなかったのも、単に転校したてで緊張していただけだったのだろう。しばらくすると、スキップはクラスでも特に可愛がられるようになった。無骨な俺よりもよっぽど人気があった。けれど、当のスキップは相変わらず俺の後ろをついてまわる。
「他の奴らと遊ばないのか?」と前に聞いたら
「遊ばない。僕は沁がいい。」とぴょンぴょン跳ねながら答えていた。
俺はまぁいいかと思っていたけど、少しもったいないなと考えていた。みんなから好かれるスキップなのだからいろんな人と遊べばいいのだ。
そもそも俺はその時、母が既に亡くなっていたせいもあり、あまり遊ぶことができなかった。弟も居るし、家事は大体俺まかせだったからだ。それでも、スキップは他の子とゲームをするよりも、俺と一緒に夕飯材料を買いに行ったり、野菜を切るのを手伝ったりしてくれたのだ。
こいつは本当に俺といて楽しいのかな、と思ったことは何度もあった。けれど、スキップしながら俺に駆け寄ってくるアイツを見ると、俺はまぁいいかと深く考えないでいた。



スキップがスキップすることをやめたのは小学校を上がるときだ。

本当に突然ぱたりとスキップすることをやめたのだ。今まで軽かった足取りが急に重くなった。近づいてくるとすぐアイツだって分かっていた独特の足音も消えてしまった。
クラスの奴らはスキップに「なんでスキップやめちゃったの?」と聞いたが、スキップは「恥ずかしいから。」と答えただけだった。スキップをする行為については周りもそれまでさほど気にとめていなかった。それはスキップの人懐こい人柄も一つの要因で、彼がスキップするとむしろ周りを和ませてくれる感じだった。
正直、俺はショックだった。
だって、スキップをしなくなったスキップをスキップと呼ぶのは変である。
俺があげたたった一つの名前がなくなってしまうと考えると少し悲しかった。でも、仕方が無い。それ以来、俺はスキップを「幹也」と本来の名前で呼ぶことにした。
俺がスキップを名前で呼ぶと、スキップは面食らったような表情をしてから、ひっそりと眉を垂れ下げた。
「もうスキップって呼んでくれないの?」
小さい声でそう言うから
「お前がスキップやめるからだろ!」
といってでこピンしてやった。
俺だってスキップってずっと呼びたかったのだ。スキップはよほど俺のでこピンが痛かったのか、涙目になって痛がっていた。



スキップが俺の後を追うことさえもやめてしまったのはその一年後だ。

その頃にはスキップの人間関係は相当広いものだった。俺は相変わらずスキップとはそれまでと同じように接していて、他の数少ない友達と親しいつきあいをしている程度だった。
俺から離れたわけではない。なんとなくスキップが俺から少しずつ距離をおいていった。いつもだったら、一緒に買い物に行くところを、他の友達とサッカーしに行ったり。今までだったら俺と一緒に帰っていたところを、クラスの奴らとゲーセンに行ったり。俺は少し寂しかったが、それも仕方が無いと思った。
本来ならこれが俺ぐらいの年の子供の遊び方だろう。俺は弟の世話をしないといけなかったから皆とは遊べなかったが、それをまさかスキップにも強要するわけには行かない。もし、アイツが本当に犬で俺が飼い主だったら、俺はスキップを俺の生活に縫い付けるだろうが、アイツは人間だ。人間は成長して、飽きていくものなのだ。

俺とスキップはそうしてあまり一緒にいなくなっていった。クラスも変わり、接点もなくなった。それでもたまに廊下であったりすると、あの頃の笑顔のままで話をしたりはした。
「幹也、最近はどうだ?」
「沁は?たっくんは元気?」
スキップがたっくんと呼んだ人間は俺の弟だ。既に何度も対面しているので、スキップはうちの内事情にも詳しかった。
「ああ、もちろん元気だよ。」
「そう。」
スキップが綻ぶように笑う。


たんたたん


スキップの右足がリズムを刻むように小さく動く。
本人は気づいていないようだが、スキップはスキップをしなくなってから、そんな仕草を見せるようになった。貧乏ゆすりみたいにせわしくなくて、ただ控えめに緩やかに地面を踏む。


たんたたん


「風邪はやってるから気をつけろよ。」
「分かってるよ。沁もね?」

最初、そのしぐさを見たときはスキップはもしかしたら時間を気にしているのかと思った。しかし、別にそういうわけでもなく、いつも緩やかに足を動かす。そのうち、もしかしたらスキップは俺と一緒にいるのが退屈でそういう仕草をしているのかと思った。現に、他の子達としゃべる時はその仕草があまり見えないのだ。
しかし、途中からなんとなく違うのではないかと思い始めた。
そうではないのだ。
もしかしてスキップは。



スキップが笑わなくなったのは、俺達が高校生になってからだ。

俺とスキップは偶発的に同じ高校にあがることはできたが、その時ではもう既に随分遠い存在になっていた。廊下で会うたびの会話も減り、それでも目が合うとき微笑みかけることはあった。
スキップは高校でも人気者で、周りにはやたらに派手な男たちがつきまとうようになっていた。馬鹿笑いが聞こえる中心にはいつもスキップがいた。だが、スキップが一緒になって笑っていることは少なかった。
いつからあんな表情になったのだろう、と考える。少なくとも俺のあとを追っていた頃はあんな顔はしていなかった。
スキップの世界は随分広がった。俺の世界は相変わらず小さく穏やかで平和なものだったが、スキップの世界は鮮やかだ。
スキップはその中でいつも同じ顔で笑っている。なのに昔よく見た少し馬鹿そうにへらっと笑っていた顔の方が何故かリアルに思える。
高校になってからよく見るあの顔。あれは実は笑っていないのではないかとふと思った。
今ではもうスキップのことスキップと呼ぶ人間はここにはいなかった。俺がただ一人、心の中で呼びつづけているだけだ。
スキップは高校でのあだ名はミッキーだ。なのに、それが俺にとっては全然しっくりこない。俺の中のアイツはいつでもスキップだ。嬉しそうに俺のあとを駆け回る犬っころみたいなスキップだった。

昔。スキップが転校してきたあの日。
スキップはクラスの喧騒を決して自分の中に入れないように遮断していたように見えた。それが何故だろうか。今のスキップが同じように見える。
スキップを取り巻く環境は彼を受け入れているはずなのに、当のスキップが拒否している。
俺はそれをどうにかしたかった。でもどうにもできなかった。
なぜなら、離れていったのはスキップのほうからだったからだ。
スキップが望んだだろう世界にいるのに、そこに俺が入っていったらスキップの世界に水を差すことになるような気がした。

だから、俺は何も言わなかった。
世界がどんどん遠ざかっていくのを感じた。



そして事件はおきた。

その道を通りかかったのは偶然だった。
「ねぇ、遊んでくれない?」
ハッとして目を向けた先にいたのはスキップだった。
いつもではみられないような誘う格好。能天気な笑い方をしていた昔のスキップのイメージがどんどん遠ざかる。
そこは夜の歓楽街である。
高校ではりつかせたあの笑っていない笑顔でスキップは誰か違う男を誘っていた。
暗くて意味深な表情。その中には官能的な匂いを漂わせていた。
男はスキップを値踏みするように見ると、「いいだろう。」といってスキップの肩を抱いた。
「俺のことはミキって呼んで。」
甘える口調でスキップが言う。それに男はいやらしい笑顔で答える。
「分かった、ミキ。」
その後、二人でどこかに行こうとする。その先には無数に輝くごてごてしたネオンの色が見えた。

俺は限界だと悟った。

離れていくスキップの世界。広がっていくスキップの世界。
まさかこんなところまで触れなくていいものを。

もう限界だったのだ。

「スキップ!!」

気が付くと腹からとんでもない声量を出してアイツを呼んでいた。
小学生以来だ。アイツをこの名前で呼ぶのは。

俺があげたたった一つの名前。何よりも愛しい名前だ。

スキップはまさかという顔で振り向いた。
俺の顔を見つけたとたんに青ざめる。隣の男は訝しげにスキップの顔を覗く。

「どうかしたの?知り合い?」
「い、・・・いえ。」

それでも俺を無視しようとしたスキップを見て、俺はもう一度その名を呼んだ。

「スキップ!!」

途端にアイツの体がびくッと震えるのが見えた。

「来い!!!」

命令だった。あの頃のスキップを呼び戻すコマンドだ。
スキップはそろりと顔を上げて俺を見た。俺は自分がどれだけ恐ろしい顔をしているかなんて分からなかった。
だが、スキップは諦めたかのように白い顔のまますごすごと俺の元に歩み寄った。
犬復活だ。

「ちょっと、ミキ。私との約束は・・・。」
男が何か言ってきたが、スキップのかわりに俺が答える。
「っせーんだよ。黙れ、おっさん。」
「なんなんだね、君は。」
「犯罪者になりたくなかったら消えろ!こいつぁ、未成年だ!」
俺がそう言うと、男は「マジかよ。」と小さく舌打ちしてから、そそくさと去っていった。

俺はスキップの手をひくと、とりあえず人気の少ない公園へと連れて行った。
そこで、スキップと向き直る。
「何やってんだよ、お前。」
正直腸が煮え繰り返るかと思った。あんな汚いおっさんとスキップが、と考えるとおぞましいとしかいえなかった。
俺が問い掛ける前にスキップはもうボロ泣きだった。こうやって見ると泣き顔は昔のままだ。
「うぅ・・な、…なんで、いつも…ぃっく。」
スキップの言う言葉にいらつく。
「ハァ?いつもなんだよ?」
「いつ…も、沁はそうなの?」
「何がだよ?」
苛立ちまじりで俺は返す。スキップはだらだらと目からも鼻からも透明な液体を出していく。汚い奴だ。
「・・・僕が一番欲しいときにくれる。」
そう言ってわんわん泣き出す。
俺は眉間に縦皺を寄せた。

…とんだ食わせ物だ。スキップは昔のスキップのままだった。
何も変わっていない。すぐ泣く洟垂れのままだ。

「僕から…離れてったのに……。」
グスッとスキップが鼻を鳴らす。


たんたたん


スキップの足が揺れる。
心地よい波に揉まれるような速度で。


たんたたん


俺はくそっと唸った。
愛しさがこみ上げてしまう。
なんとなく。もしかして。と思っていたことがあった。
それが実はただ一つの真実なのかもしれないと俺はようやく理解した。

「スキップ、お前。」

スキップが泣きはらした目で顔を上げた。
ぐちゃぐちゃだ。なのに、もうどうしようもなく。

「お前、俺が好きなんだな?」

そう言った瞬間スキップの顔が急激に赤く染まった。
推測が確信に変わる。

「え?あの・・・ぇ…その。」
スキップの目が完全に泳ぐ。口から出てくる言葉は日本語ですらない。
俺はスキップから目をそらさずにゆっくりとした口調で聞いた。
「正直に言え。なんであの時、いきなりスキップするのをやめたんだ?」
小学校から中学校へと上がる時。
スキップがスキップしなくなった時。
スキップは俺の目を見てから一度沈黙した。そして。
「…だ、だだって、バ、バレちゃうって思ったから。」
蚊の鳴くようなスキップの声がした。

「僕が沁を好きなのがバレちゃうって。」



スキップは俺に駆け寄るときはいつも足取りが軽い。
嬉しそうに楽しそうに寄ってくる。
それが他の子達には不思議だったのだろう。
他の子達はスキップに聞いた。
「なんで沁君の所に行くときはいつもスキップなの?」と。
スキップは賢い犬だった。
だからスキップはスキップをやめることで俺への気持ちを隠そうとしたのだ。



俺はため息をついた。
「俺はてっきり俺といるのがつまらなくて離れていったと…。」
「違うよ!!!」
スキップは強く否定した。
「沁はかっこいいよ!!僕のあこがれだし、皆のあこがれだよ!!」
「ハァ?俺のどこが?」
「沁はあんましゃべんないけど、いつも見てくれてて、一番大切な言葉をくれる。初めて会ったときも、今も…。みんなだって沁のこと、影ですごいかっこいいとかいってるし…。」
スキップが頬を染めてそんなことを言う。
ハァ。ため息二度目だ。
「じゃ、どうして離れてったんだよ?」
俺の言葉にスキップは俺を真正面から睨んだ。
「だって気持ち悪いでしょ!!!」
爆発したようにスキップが大声を上げる。
「だって僕、男が好きなんだよ!?さっきだって見たろ!?気持ち悪いだろ!?」
「きもちわるくねぇよ!!」
「…え…。」
俺は髪の毛をぐしゃっと掻いた。
スキップが気持ち悪いなんて思うことすら不可能だ。それでもさっきのことを思い出すだけで忌々しい。
「大体、なんでこんな時間に…。」
普通なら親が叱るような時間帯だ。
「僕んち、今ごたついてて…その…家に帰りたくないんだ。」
スキップは目をそらした。もともとスキップの家はうまくいっていなかった。もしかして離婚したのかもしれない。
スキップにもきっと事情があるのだろう。けれどだからといって。だからといってこれはないだろう。

俺はあることを決心した。

「スキップ。お前は俺が好きなんだろ?」
俺の鋭い質問にスキップはおそるおそる首を縦に振る。
「じゃ、こういうとこにはくんな。そういうことはすんな。」
スキップが小さく頷く。目じりからまた涙がこぼれていくのが見えた。
「家に居場所がない?なら、うちにこればいい。琢はお前のこと好きだし、お前だって琢の世話くらい見てやれるだろ?」
俺がそう聞くと、スキップはブンブンと頷く。
「うん、僕たっくんの世話見るよ。で、でも。」
「でもなんだよ!?」
「でもぼ、僕…沁が好きなんだよ!!?」
縋るような瞳から大粒の涙がこぼれていく。
二人の間に沈黙が下りる。


たんたたん


相変わらずスキップの右足は小さく動いていた。
俺はそれに気づいていたが、スキップ本人は気づかない。
心もとない声でスキップが呟いた。

「…電流みたいなんだ。」

スキップが両腕で自分の体を抱きしめる。
「沁にはわかんないと思うけど…、沁のことを思うと電流が走るんだ。」
スキップは体を震わせる。
「そうするとね、体が言うことを聞かなくなるんだよ。無意識にスキップしたくなって、小躍りしたくなって、とまんないんだよ?」
俺は目を細めた。スキップは相変わらず泣きながら俺に訴えつづける。


たんたたん


スキップの右足が動く。
優しいリズムに乗って、言葉を紡いでいく。

昔。
あの馬鹿みたいに飛び跳ねていた歩き方も、このとても些細な足踏みも、全てが俺に告げていた。


たんたたん


「沁、…大好き。」


電流が走ったのは俺の方だった。
何かがプツンと切れたように、俺はいつのまにかスキップを抱きしめていた。
スキップが俺の腕の中でワーンと声を張り上げた。
「沁、沁、いいの?ねぇ、いいの!!?」
俺はそれには答えず、ただスキップを強く強く抱きしめた。


気持ちを体中で表現しているスキップがどうしようもなく愛しかった。
スキップするのも、足を揺らすのも、全部俺への大好きのせいだった。

スキップは尻尾を振る代わりに、スキップした。スキップしなくなったら、足を揺らした。
なんて簡単なことを見落としていたんだろう。
なんで今までずっと気づかなかったんだろう。

俺には自分の気持ちがどんなものかがよくわからなかった。
でもただ、俺が一番幸せだったのは、スキップが馬鹿みたいに俺の後をスキップして回っていた頃のことばかりだ。
俺はスキップを一体どうしたいのだろうか。
わからない。わからないけれど、スキップはやっぱり俺を思ってスキップしていればいいんではないだろうか。

とにかくあの一番幸せそうだったときの顔がもう一度見たかった。

俺は腕の中にいるスキップに話し掛けた。スキップは昔と同じ顔をしていた。
「・・・スキップ。お前、また馬鹿みたいにスキップしてろよ。」
「・・・僕、もう高校生だよ?」
「いいんだよ。お前はそれで。」


スキップはへらりと笑った。何も考えてない顔だ、これは。
それでいい。馬鹿なことなんて考えないでいい。考えない方がいい。
お前は我慢しないでいいんだ。



スキップ。お前の名前はスキップ。
お前はただ、俺を思って飛び跳ねていればいい。
それでいいんだ。





終わり

written by Chiri(3/29/2007)