逃げるサカナ 今まで音弥(おとや)はつまらない人間だと言われて育ってきた。しかし、そんなことは人に言われなくても随分前から分かっていた。 昔から自分の意思を伝えるのが苦手だった。否、苦手と言うのには語弊があるのかもしれない。必要性が無いと思っていた。 音弥の母はよくしゃべったし、姉とタッグを組んでしまえば彼女達の意思を覆せる人間はいなかった。父は父でありながら家庭ではあまりしゃべらず、仕事に生きているような人間だった。音弥に意見を聞く者など彼の家庭にはいなかったのだ。 そのせいか、音弥はそのまま淡々とした人生を歩み続けたが、やはりそれからしばらく後も必要性は生じなかった。友達は元よりあまりいなかったが、濃い関係など求めた事も無かった。中学、高校と目立たず生きていき、大学でも影をひそめていたのだが、どこで間違ったのか朝比奈壮士(あさひなそうし)に捕まった。 「よく見ればお前、可愛い顔してるな」 男に言うものでも無いなぁ、と思いながらその言葉を聞いた音弥は首をかしげた。 「なんか、昔飼ってた犬に似てる。ダックスフント」 いい足されてなるほどと理解した。男に言うものではなくても、犬には言える科白かもしれない。 けれどその言葉をきっかけに壮士はやたらと音弥を構うようになった。 一ヶ月後には、いきなりキスをされた。 「嫌だったか?」 突然の事で音弥がどう答えて言いか分からず口を噤むと、壮士はそのまま笑った。 「嫌っていっても、もうお前は俺のもんだけどな」 促されるままにセックスをした。痛かったけれど、それだけではなかった。快感と心地よさも確かにあった。 音弥は自分を何かに例えるとしたら、魚だろうとずっと思っていた。 意見を持たない音弥は力を持つ人間に専ら流される運命にある。けれど流されることは別に嫌いではなかった。大きな海を泳ぐことに似ている。流れに乗ってその心地よさに身を任せる感じである。それは自分では決して作る事のできない果てしない世界に参加する権利をもらうような嬉しさを伴う。 そうだ、壮士は音弥にとって海のような人間だった。 「ふぅん?僕には壮士クンがそんな人には思えないけどね〜」 200人は収納できる大教室でいつもの講義が終わる後に必ず音弥に話しかける男がいる。甲斐田洋介(かいだようすけ)という男だ。 この講義が終わると同時に、昼休みが始まる。音弥はいつもこのタイミングで甲斐田に捕まってしまう為、なんだかんだで一緒にお昼をとることが多い。 その日も、結局甲斐田に流されてしまい、一緒に食堂でパンを食べることになってしまった。 「正直さ、嫌になってるんじゃないかな?壮士クン」 甲斐田は音弥と壮士の関係は何故か知っていたが、基本、壮士に対しては良い感情を持っていないらしい。それを音弥は今までの会話でなんとなく分かっていた。 音弥はその言葉にムッとすることもなく、平坦な口調のまま聞く。 「なんで?」 「だってつきあって三ヶ月目だろ?」 三ヶ月の呪いだ、と甲斐田はせせら笑った。 三ヶ月の呪いがどういう意味かは音弥には分からなかったがそれに対しては何も突っ込む気も無く、パンのかけらを口に含んだ。 「最近ちゃんと会ってる?」 「うん」 週に三日は会っている。というか、壮士がいつのまにか音弥のアパートに居たり、いきなり音弥を連れ出しに来るのだ。 「じゃ、セックスは?」 「……」 食事時になんてことを聞くんだ、と思ったが数えてみたら会っている割にはしていないことに気付いた。それでも一週間あけることさえ稀なのだが。最初の頃は毎日の勢いでしていたというのに。 「マンネリだよ、マンネリ。音弥に飽きてちゃったんじゃないの、壮士クン?」 「それは無いと思うけど」 会えば必ず好きだとか愛しているとか耳にたこが出来るほどいってくる。それはもう押し付けがましいほどに。壮士は言葉を惜しむ輩ではないのだ。 「勘違いしないでね。僕は別に音弥を責めてるわけじゃないからね。ただ二人には別れて欲しい感じ?だって僕……」 「壮士が嫌い?」 「うん、そう」 悪びれることなく甲斐田は答えた。 音弥は持っていたパンを完食すると、入っていた袋を几帳面に折りたたんだ。これ以上話すことは無かった。 だからそのまま、立ち上がって音弥はその場を後にした。 甲斐田が何を言ったって変わらないものは変わらない。 魚は水が無いと泳げないもの。 音弥に壮士は必要だった。 *** アパートに帰ると壮士が既に居座っていた。 6畳一間の狭苦しいアパートによくもまあこんなにも通いつめるものである。しかし実家通いの壮士にとってはそんな小さな部屋も自由を謳歌できる秘密基地になるようだ。 「壮士、来てたの?」 「なんだよ、来てちゃ悪いかよ?」 音弥が首を小さく横に振ると、壮士がその大きくて無骨な手を差し伸ばした。壮士の手が音弥の頬を触れる。形を確かめるように、桃を触るような優しさで撫でられる。 「音弥、好きだよ」 「うん」 帰ってきてまだ幾許も経っていないのに愛の告白である。 音弥は壮士のこの言葉を何度も聞いた。何度も聞くたび、壮士の海は大きくなって音弥を広々と泳がせてくれる。壮士が何故そんなに何度も言うかなんて考えたことも無かった。ただ、音弥はその与えられる心地よさだけを信じていた。 「好き、好きだ」 「うん」 壮士の甘いキスが振ってきて、それを甘受する。 囁かれる愛の言葉は心の中に優しく積もっていく。音弥は幸せだった。 「お前は……うんとしか言わないんだな……」 「……え?」 トーンの変わった壮士の言葉に顔を上げると、壮士が目を細めて音弥を見つめていた。 「俺、本当になんでこんなに好きになったか分からないくらいお前が好きなんだ……」 「うん……」 壮士の気持ちが溢れんばかりの瞳。その奥に溜めきれずに涙になって出てきそうになるくらい。これを見て、どうして壮士がマンネリしているだなんて甲斐田は思うのだろうか?少なくとも音弥には壮士が音弥に飽きてしまったようには見えなかった。 音弥は壮士に劣情に堕ちた手で服を脱がされて、抱かれた。一週間ぶりの契りだ。 音弥は自分の体を洞穴のようだと思った。壮士が好きだと言えば言うほど、何度でもこだまして教えてくれる。体の中までずっと響いている。 音弥にとって壮士の全てが心地よかった。 「ご飯作っておいた」 夢の中にいた音弥の鼻を香ばしい香りが刺激した。それで音弥はやっと起きた。 見てみると、壮士はすっかり服を調えて、しかもエプロンまでつけている。手には皿が乗っていて、その皿にはおいしそうなハンバーグが乗っていた。 「お前の好きなハンバーグだぞ」 「壮士!」 音弥が壮士を見上げる。口元を綻ばせて笑うと、壮士は仕方ないといった風に笑った。 ダイニングテーブルに皿を置いて、音弥もそこに座るように促す。 「食べていい?」 そわそわしながら箸をつかむと、壮士は「どうぞ」と言った。その瞬間に、音弥はハンバーグに箸を入れた。中からジュワッと肉汁と湯気が溢れた。音弥は箸で切った部分を勢い良く自分の口に運ぶ。 おいしい。壮士のハンバーグは最高なのだ。 「本当、犬みてーだな、音弥は」 「え?」 「いや、なんでもない」 はふはふと食べる仕草はそんなに意地汚く見えただろうか? 音弥は少しだけ自省したが、おいしいものはおいしかった。 それに壮士の言葉は別に音弥に対して怒っている様子は無かった。ただ、寂しそうに曇っていた。それに気付いていながら、音弥は壮士にかける言葉が思いつかなかった。 いつもそうだ。 自分で何かを言おうとすると母や姉の怒鳴り声を思い出す。 ――あんたの意見なんて聞いてないっ! ヒステリックに怒鳴りあう二人をとめようとするといつもそう言われた。だからいつのまにか自分が何かを言ってはいけないように感じられた。何かをしゃべることは罪のように感じられた。 音弥が夢中で食事をしている間、壮士はじっと音弥のことを見つめていた。音弥がその視線に気付き、顔を上げると、壮士は聞いた。 「おいしいか、音弥」 「うん」 「おいしいと思ったならさ、俺にキスしてくんない?」 音弥はぱちくりと目を開けた。何それ、と心の中で思いながらも壮士の真剣な表情を見れば、何故だかウットリしてしまう。いつも壮士には甘い甘いキスをしてもらっているのだ。なら、自分からしたって変じゃないはずだ。 音弥は身を乗り出すと、自分より7,8センチ高い目標めがけて、背伸びした。唇と唇が当たると、ブワッと優しい気分になれた。好きな人にキスするのって気持ちいいんだな、と音弥は夢見心地で考えていた。 だから音弥はその後の壮士の呟きなんて聞こえてもいなかった。 「……みじめだな」 音弥はただただ幸せな香りに包まれていた。 「幸せ、だって?」 いつもの昼休みに、甲斐田と話をしていた音弥の言葉を聞いて、甲斐田は箸を置いた。 音弥の方は何も考えずにパンを食んでいて、甲斐田の言葉に「うん」と頷いた。 「壮士がハンバーグ作ってくれたんだ」 幸せの報告みたいな文章を音弥が続けて言うと、甲斐田ははぁっとため息を吐いた。 音弥としてはこの間甲斐田が言っていた壮士の悪いイメージを払拭したかったわけだが、甲斐田は相変わらず厳しい顔をしていた。 「あのね、僕から言わせてもらえば君って不幸せだと思うよ……」 「え?」 思わず聞き返してしまった。人に面と向かって不幸せと言われるのは決して気分のいい話ではない。 「あのさ、今日って壮士君は何してるの?」 「えっと、今日はバイトだって……」 「じゃ、時間あるよね。ちょっと僕と一緒に来てくれない?」 そう言うなり、甲斐田は席を立った。何も言わずに音弥がついていくのを待っている背中だった。 音弥は仕方なく席を立った。そして甲斐田が歩き出したところを一歩遅れて、歩き始めた。 甲斐田が連れてきたのはファミレスだった。安いという評判で学生がよく屯しているところというよりは、少しおしゃれで女性向けに作られたところだ。 「ここさ、俺時々バイトしてるんだよね」 甲斐田はそう言うと、ちらっと時計を見た。まだ正午過ぎだ。 ドアを開けると鈴が鳴った。中から店員が出てくると、甲斐田が知った顔で「俺ら、奥の席に座るわ。アイスティー二つね」と言ってツカツカと踏み入った。音弥はその後をスゴスゴとついていく。 奥のボックス席に座ると、音弥は戸惑いがちに甲斐田の顔を見上げた。 「こんなとこに連れてきて何を……」 「シッ、頭下げて――」 甲斐田の声色が変わり、音弥は咄嗟に言うとおりにした。しばらくして動かない甲斐田を不審に思うと、同じようにして頭を下げている甲斐田の視線を追った。 甲斐田は店の入り口をじっと睨んでいた。 「今ね、スイーツ特集してるんだよー」 声の高い女性の声がした。そしてそれに続き聞こえてきた声は。 「へぇ、そうなんだ」 音弥は信じられない思いでその人物を見つめた。 それと同じ声で昨夜愛を囁かれた。それと同じ腕で強く抱きしめられたはずなのに。 「……壮士」 女と壮士は腕を組みながら、店に入ってきた。店員が案内すると、ちょうど音弥のボックス席の手前のところに二人を案内した。 「何食べようかな。軽くお昼食べて、デザート頼んじゃおっかな。ここのイチゴパフェがね、すごくおいしいんだよ」 「へぇ」 「壮士は何食べる?」 女の子はくるくると笑いながら、壮士に話しかけていた。それを壮士は気のない返事で返していたように見えた。 その様子に少しだけホッとしながら音弥が息を吐いた。 「別になんでもいいよ」 「もうっ!ちゃんと考えてよー。私が勝手に選んじゃうよ」 「そうしていいよ」 女の子はそんな壮士の様子に文句を言いながら、店員を呼んだ。頼んだはハンバーグセット二つとパフェだった。 店員が去ると、女の子の声がほんの少しだけ遠くなった。壮士の方へと体を乗り出したのだろう。 「壮士、私、週に一回しか会えないなんて寂しいよ」 声が甘える声に変わった。 壮士は相変わらずそっけなく返答した。 「悪いな、バイトが忙しくてさ」 「もう、いつもそれじゃん」 音弥はドキドキしながら声を殺していた。 大丈夫。だって壮士は自分にはもっと会っている。自分を好きなはずだ。 どこかで女の子と自分を既に比べているところが悲しかった。 「私、壮士が好き!すごく好き!だからもっと会いたいよ」 恥ずかしげも無く女の子はそう言った。 音弥はそれが忌々しくて、なんて恥ずかしい人だ、と心の中で呟いた。けれど。 「そうか」 壮士はフッと小さく笑った。その後、 「お前、恥ずかしい奴だな、ハハ」 と口を押さえて笑っていた。 女の子も「だって、本当だもん」だなんて照れながら笑っていた。 そんな二人の会話を聞きながら、音弥は泣きたい気持ちになった。 壮士の笑い声を聞いたのは久しぶりかもしれない。 そうだ、壮士はこうやって笑う人だったじゃないか。 さっき見た二人の光景が瞼の裏に蘇る。二人はまるで普通のお似合いのカップルだった。浮気とかそういうのには見えなかった。そう、まるで。 これから好きあっていく初々しい二人に見えた。 店員がハンバーグセットを盆に乗せて、二人に配膳する。その間にも女の子の「わぁ、おいしそう!」という声が音弥の癇に触った。 いただきまーす。 あ、おいしいね。壮士は? うん、うまいな。 和やかな一連の会話を聞きながら、涙が下のほうから込み上がって来た。 壮士。昨日食べたハンバーグもおいしかったよね。 こんな所で食べるハンバーグよりもずっとずっとおいしかったよね。 俺の方がその女の子よりずっとずっと好きだよね。 涙が出てくる前に、目を擦りあげた。 「壮士、今日この後、どうする?」 ふと女の子の声色が変わった。その言葉ば誘っているのは音弥にでも分かった。 「……うちくる?」 「あ――どうすっかな――……」 壮士が考えるように語尾を伸ばした。 その瞬間、もう限界だと感じた。 バッとその場から立ち上がり、抜け出そうとしたら、足が絡まった。 ぐらりと地面が傾いた。 「音弥っ!」 いつもはクン付けで呼ぶ甲斐田の声が大きく聞こえた。音弥はそれに気付きながらも答えることができなかった。 音弥はそのまま、勢いにまかせて店の床に転んだ。ちょうど、壮士と女の子が座るボックス席の横に、だ。 「え?……音弥?」 壮士の驚く声が聞こえた。 その声にまた涙がこみ上げてきた。気付かれたくなかったのに。 音弥は無言で体を起こして、そのまま店の入り口に走った。 「音弥!」 甲斐田の声と壮士の声が同時に追いかけてきた。それに反応して一瞬だけ、振り返ると壮士と目があった。 ブワッと涙があふれだした。壮士がヒュッと息をのんだ。 横にいる彼女が羨ましかった。羨ましくて憎かった。 壮士の視線を振り切ると、そのまま走って店を出て行った。 もう全てが分からなくなった。 壮士がそもそも自分を好きになってくれたかも分からなかった。 あの二人を見ているとまるで向こうが本命に見えた。 自分と一緒の時には見せない壮士の笑顔が苦しかった。 俺の何がいけなかったのだろう。 俺がつまらない人間だから。 俺が一緒にいてもおもしろくない人間だから。 自分を責める声は絶えず聞こえてくるのに、壮士を責める声はどこからも聞こえなかった。きっとそう言うことなのだ。自分の何かが悪かったのだ。 きっとそれだけだ。 なのに、あふれ出てくる感情は悲しさと怒りと悔しさがあった。 だって好きだったのだ。 壮士が例え誰を好きであろうとも、音弥は壮士が好きだった。必要だった。一緒じゃないと苦しかった。どんな理由でつながっていても良いから側にいてくれないと困った。 悔しくて、悲しくて、やっと走っていた足が止まった。 その場でサァッと力が抜けて、足がすくんだ。 これからどう生きればいいのか。 息が苦しいのは、自分が棲む世界を奪われたからだ。 壮士と言う海を失った自分はどうやって生きればいいのだろうか。 その時、後ろから見知った声が聞こえた。 「音弥!」 「甲斐田……」 音弥を追って来た甲斐田は文字通り、音弥めがけて走ってきた。ドンと体当たりされたかと思いきや甲斐田は音弥の体を抱きかかえていた。 「ごめん!」 耳に響くような声で謝られた。 「余計な事してごめんな……」 耳元で囁かれた二度目の謝罪は音弥と同じくらい暗かった。 「でも嫌だったんだ、僕が」 ギュッと抱きしめられた手に力が入った。 「音弥がそんな風に扱われているのは、僕が嫌だったんだ」 甲斐田はこのことをずっと知っていたのだろうか。ずっと知っていて、だから壮士を嫌いでいたのだろうか。 「音弥、うちにおいで」 音弥は甲斐田の声はまるで御伽噺にでてくるような心地がすると思った。ふわふわしてひどく現実味が無い。 「海は一つだけじゃないよ。水が合わなかったのなら別の海に逃げればいい」 前に言ったたとえ話を甲斐田は覚えていたらしい。音弥が今おぼれそうになっているのを感じ取ったのだろうか。 甲斐田は音弥の目に溜まった涙を手で拾うと、 「音弥クンは僕の海で泳げばいいんだよ」 まるでおとぎの世界の言葉で言った。 溺れそうになればなるほど考える力は失っていくものだ。 だから音弥は甲斐田の言葉に頷いていた。 その時は、それしか縋るものが無いと思った。 *** 甲斐田は「音弥クンは何も悪くないよ」と何度も音弥に言って聞かせた。その度に音弥は「じゃなんでこんなことになったの」と聞きたい気持ちを抑えた。 甲斐田はポンポンと音弥の肩を叩くと、「大丈夫だから」と何度も言った。その度に音弥は「大丈夫じゃないよ」と言いたくなったがそれも抑えた。 今のところ、甲斐田は台所で夕食を作っている。その時、音弥は膝を抱えて、窓の外を見ていた。何かを考えようと思えば、壮士と過ごしてきた時間を思い出すのでそれくらいだったら何も考えない方がましだというのに。 「音弥クン、ご飯できたよ」 甲斐田はそう言うと料理を音弥の前にあるテーブルに並べた。ご飯と味噌汁と白身魚の煮付け、野菜炒めにかぼちゃの煮物。意外にも甲斐田の料理は品目も内容もしっかりしていた。 「これ、甲斐田が作ったの?」 少し驚くと、甲斐田が笑った。 「ファミレスのホールのバイトしてたからね。ある程度はできるよ」 すごいな、と思いながら箸をつけた。味も出汁がきいていて美味しかった。 もぐもぐと夢中で食べている音弥に向かって甲斐田が噴き出すように笑った。 「音弥って犬みたい」 壮士と同じことを言われて内心ひどくドギマギとした。壮士と同じ言葉を聞いただけなのにまた涙があふれてきそうになる。 「な、なんで?」 震えた声で聞くと、甲斐田が「うーん、雰囲気?」と答えた。 やっぱり意味が分からなかった。 けれど甲斐田の言葉は続いた。 「でもさ、やっぱり人間だから、言葉で言って欲しいな」 「え?」 「音弥クン、僕は君においしいって言ってもらいたくてこれを作ったんだよ」 優しく諭されるように言われた。 甲斐田の手が伸びてきて、音弥の髪の毛にさらりと触れる。 「だから、言って?」 音弥は甲斐田の言葉を頭の中で整理していた。 甲斐田はまた壮士と同じようなことを言っていた。壮士は以前においしいと思うならキスをしろと言ったのだ。壮士もまたおいしいと言って欲しかったのだろうか。 音弥は一度息を呑んでから言った。 「お、おいしかった、よ」 「よくできました」 甲斐田はにこりと笑うと、そのまま音弥の唇にキスを落とした。ご褒美のように自然なキスだった。 けれど、音弥は耐え切れず視線を落とした。箸をおくと、両手を膝に置いた。 だって、気付いたのだ。 昔、母と姉に「あんたの意見は聞いてない」と怒鳴られた事がある。その後に、父に「二人の意見に黙って従っていなさい。そっちの方が音弥が傷つかないよ」と助言された。自分で自分の意見を言う事はろくな事がないのだ、とその時無意識に思っていた。ある意味では生きていくための処世術だったのかもしれない。 だから今まで何もいえなかった。 自分は一度でも壮士に好きと言う言葉を返したことがあっただろうか。 壮士があの女の子を選んだ理由が分かった気がした。自分は壮士に何も言った事が無かった。何も見える形であげたことは無かったのだ。けれどあの女の子は何の臆面も無く壮士を好きだと笑って言っていた。きっとそこが違いだったのだ。 今更気付いても何もかもが遅かった。 なくしたものを数えるなんて悲しいし、何も産まない。 でも今はそんな悲しい事をせずにはいられなかった。 「……俺は、壮士のハンバーグをおいしいと言えばよかった」 甲斐田が眉を顰めた。 音弥はそのまま続けた。 「壮士が僕の家に来てくれるのが嬉しいといえばよかった」 壮士が来た時、音弥はいつも照れて変な顔をしてしまった。あからさまに嬉しい顔をするのが恥ずかしかった。 「好きだって、ちゃんと言えばよかった。壮士はいつも好きだっていってくれていたのに」 何度も何度も耳にたこができるくらい壮士は音弥に好きだと言っていたのだ。それなのに、一度も音弥が言わないことを壮士はどう思ったのだろう。 「……俺がいけなかったんだ」 きっと壮士との関係を壊したのは音弥だったのだ。 「音弥……」 甲斐田が痛ましげに音弥を見つめた。 「でも、これからはちゃんと俺の事は俺が言う」 音弥は顔をあげて、甲斐田の顔を見た。 「俺は甲斐田とのキスは嫌だった」 甲斐田が目を瞠る。音弥は口を一文字に結んで、一息置いてから言った。 「壮士が好きだから」 そういった瞬間、また流してはいけないものがこみ上げてきた。 口に出すとこんなにも愛しさが増すなんて知らなかったのだ。 今更気付いても仕方ない事なのに。 それでも泳ぐ魚にだって意地はある。 ただ何も考えずに海に流されていたわけではないのだ。 流れに流されていたのは流されていたかったからだ。 音弥の海は未だに壮士だった。 「まいったな。もうちゃんと咲いていたんだな」 甲斐田は意味がわからないことを言うと、仕方なさそうに笑った。甲斐田は音弥の頬に手を添えた。優しい瞳で見つめる。 「もったいないから僕が咲かそうと思っていたのに」 ますます意味がわからなくなったその時だ。 「音弥っ!」 突然聞こえてきたのは壮士の声だ。 扉のノブを不必要なほどまわす音が聞こえると、カチャと金属音がした。その後バタバタと大きな足音が近づいてくる。 そして。 「ここにいるのか、音弥!」 バーンッと扉が跳ね返るほどの勢いで壮士が部屋に入ってきた。甲斐田と音弥は目をまんまるくして硬直した。 「て……」 甲斐田がワナワナさせて壮士を睨んだ。 「てっめぇ、土足で入って来てんじゃねーよ!しかも不法侵入!」 「お前、俺の音弥に何したんだよ!」 瞬間、かみ合わない言葉が行き来した。 壮士は目の赤い音弥に甲斐田が手を添えていたのをばっちし見てしまったらしい。しかし、怒鳴り込む壮士に甲斐田は心底侮蔑した表情を向けた。 「お前に音弥を自分のものだという資格なんてねーよ」 壮士はグッと言葉をのんだ。その様子を音弥が見つめると、それに気付いた壮士は居心地悪そうに視線をそらした。 「壮士……」 音弥はぽつんと壮士の名前を呼んだ。 壮士はすまなそうに床を見つめる。 けれど、音弥にとってしないといけない事は一つだった。 「壮士、俺、おいしかったんだ、ハンバーグ」 声が震えた。 壮士は目を瞠った。ゆっくりと顔をあげて音弥の目をそろりと見つめる。 音弥は澄んだ目で壮士をそのまま見つめた。 声が震える。 自分の意見を言うのって怖い。 けど言わなくちゃいけない気がした。 「壮士がいつも俺の家に来てくれたとき、俺は、……嬉しかった。壮士が好きって言ってくれるたびすごくすごく嬉しかった。壮士とするキスが大好きだった。壮士が抱きしめてくれると、俺はいつも幸せになれた」 壮士の口が何かを言おうとするように小さく開いた。 けれど構わず音弥は続けた。 今言わないと、あふれる想いが乾いてしまいそうな気がした。 「壮士の料理はおいしかった。壮士のエプロン姿はかっこよかった。俺を抱く壮士はもっとかっこよかった。壮士が俺をベッドで呼ぶ掠れた声が好き。壮士の匂いが好き。壮士の腕が好き。壮士にもっとずっと抱いて欲しかった」 壮士が手を口元に持っていく。 音弥は自分が恥ずかしい事を言っているような気がどこかでしていた。けれど、そんなのは全部麻痺して、ただただ吐き出さないと。 好きって伝わるまで全部言わないと! 「俺は、壮士と出会えてよかった。壮士が俺のこと見つけてくれてよかった。壮士と一緒ならなんでもよかった。壮士と一緒にいたかった。ずっとずっと、一緒がいい」 あふれ出す。 あふれ出すのにそれを捕まえきれない。 「や、やっと言葉にすることを覚えたのに、壮士、どうしよう。言葉じゃ言い尽くせない」 音弥は子供のように顔を歪めた。 「俺は壮士が大好きだ」 そう言うとわぁわぁと体の中から涙が迫ってきた。 言葉にする事は自分の心をあげるという事だ。 音弥は壮士に全部あげたかった。なのに全部はあげられない。こんな言葉ではこの気持ちをおさめる器になりきれない。 だからそのあぶれた気持ちが涙になってあふれ出す。 じれったい、じれったい。 心を全部あげられないのはじれったい。 ああ、だから人って抱き合うのかな。 そう思った瞬間、壮士の大きな腕が音弥を捕まえた。 「……もういいから、ちゃんと全部伝わったから」 ぎゅっと抱きしめられたら、やっとあふれ出す気持ちに押さえができた気がした。肌が触れ合うところからきっと音弥の気持ちが壮士に直に伝わっている。 壮士は音弥の耳元で掠れた声を出した。 「俺が悪い。全部俺が悪いんだ」 音弥が壮士の顔を見上げる。壮士は断罪された顔のまま、音弥に言った。 「本当に俺は最悪なんだ。俺は別にあの子が好きだったわけじゃない。ずっとお前の「好き」がもらえなかったから、他の奴の「好き」を聞いてウサ晴らししてただけなんだ」 最低な奴、と甲斐田が後ろで言葉を漏らした。壮士は何も言わずに小さく頷いて続けた。 「あの子とはいつもお茶してただけだ。誘われてたけど、いつも最後は断ってた」 「そっか」 言い訳がましかったけれど、それでも音弥にとってはそれが何よりも嬉しい事だった。最低なのは自分も同じだ。壮士が音弥を一番に思っていたことが本当に嬉しかった。 壮士は一息ついた。 「ごめん、音弥。俺はずっとお前が俺のこと本当に好きなのかがずっと分からなかったんだ。お前は何もしゃべらないから、何も感じていないのかと思っていた。だからストレスが溜まっていって、他の子と遊びに行ったりして、でも」 壮士はごくりと唾を飲み込んだ。 「お前の牡丹餅みたいな涙を見て、なんかやっと分かった。俺のやってる事は最悪だったって」 「牡丹餅って」 真剣な話をしていたのに、つい笑ってしまった。 壮士は眉尻を下げた。多分、自分が情けないという表情だった。それでもまだ欲しいものがある。だだをこねる子供のような、理不尽に欲しがる赤ん坊のような。 「ごめん、許して。音弥、もうしない。だからもう一回俺にお前を好きだって言わせて」 ぎゅっと縋るような手つきで抱きしめられた。 音弥は壮士はなんて変なことを言うんだろう、と考えていた。 好きだと言うのに資格がいるなんて。好きなら好きと言えばいい。心のままに叫べばいい。 じゃないと、結局は本当の気持ちなんて伝わらないのだから。 「壮士」 音弥は優しく壮士に呼びかけた。 その裏で甲斐田が大きくため息を吐いた。音弥が許してしまう事なんて彼にはお見通しなのだろう。 壮士は死刑を宣告されたような顔で音弥の言葉を待った。 「ぶっころす」 音弥の言葉に壮士が目を大きく見開いた。 「次、また浮気したら」 音弥は悪戯っぽく笑ってみせた。 そして次の瞬間、壮士の胸にポスンと自身を勢いよく埋めた。 およそ音弥が言いそうに無い言葉に壮士は硬直し、甲斐田は少しだけ噴き出した。 そして音弥はやっと自由を取り戻した魚のようだった。 ああ、還ってきた。 自分の海に還ってきた。 自分の棲家に戻ってきた心地がした。 けれど前よりも心は優しくて、温かい。 今まで奥底に詰め込んでいたものをやっと解放できた気分だった。きっとそれは全部プレゼントにして壮士にあげたのだ。だから壮士だって前よりもずっと音弥の気持ちを重く受け取っているはず。 壮士はゴロゴロと擦り寄る音弥にやっとホッとして、優しく抱きしめた。 音弥の口からふと出た殺意。いつもの音弥からだと想像もできない言葉だ。 「音弥にならぶっころされてもいいよ」 腕の中にいる大事な人に向けて、壮士は笑った。 けれど、心の中では苦笑していた。 「本当はそんなことを言わせたかったんじゃなかったんだけどな」 壮士はふぅっとため息を吐いて、小さく呟いた。 ずっとずっと聞きたかったのは寡黙な恋人の優しい愛の告白だった。 けれど、それをもらえなくしたのは自分のせいだ。 だから、甘い甘い愛の言葉はまた明日。 おわり 遅すぎてすみません。若干、肩慣らし気味になってしまいましたが、210000番のキリリクをしてくださったヨウ様に捧げます☆一応浮気攻めのリクエストでした。 浮気攻めを書くとどうしても攻めがクソオトコになるような気がするのですが、もうこれは仕方ない気がしてきました。(諦め) written by Chiri(6/11/2008) |