さよならポンちゃん(8)



 僕はタイちゃんとずっと一緒にいられるようになった。
 山に帰る必要がなくなったから、本当にずっと一緒にいられるようになった。僕は社長さんの庭とおうちの中に自分の定位置を作った。一つは庭の僕の宿り木が埋まっている場所。そしてもう一つはタイちゃんの部屋の隅っこ。
 タイちゃんが部屋で成司さんから借りた漫画を読んでいたり、本を読んでいる間、僕も横でこっそりそれを借りて読んでいたりする。僕は文字は読めないけど、絵を見ているだけで面白かったりする。それにそういう時って成司さんは必ず来ない。多分、僕がタイちゃんの部屋にいるのが感覚的に分かるんだと思う。
 僕はタイちゃんによく話しかけるようにする事にした。
「ねぇ、タイちゃん。この漫画、おもしろいよ」
「ねぇ、タイちゃん。明日、雨だって」
「ねぇ、タイちゃん。今日も気をつけてね」
 タイちゃんが僕に返事をすることは無いけれど、タイちゃんは少しだけ安心した顔を僕に見せてくれる。
 タイちゃんには僕は見えないけれど、だけど僕がここにいること、分かってるのかな?なんてことを時々思うようになった。ただの気休めだけれど。



 タイちゃんがうなされているのを聞いたのは、それからしばらくしてからの事だった。まだ午後六時前で、タイちゃんが深夜出勤する為の仮眠をとっている時だった。
「やだ……かないで、……お、母さん」
 タイちゃんの手が宙を泳ぐ。
 僕はタイちゃんをベッドの上から覗き込んだ。
 汗がビッシリと出ていて、タイちゃんは苦しそうに涙を流していた。
「やだ、……行っちゃやだ……」
 お母さんが死んじゃった時の夢を見ているのだと分かると僕まで泣きそうになった。
 ぽろぽろと涙を流すタイちゃんの様子は子供のまんまだった。
 タイちゃんは目をつぶったまま、あ、と一言言った。
 様子が少し変わって、また更に苦しそうな顔になった。タイちゃんは首を小刻みに横に振る。

「やだ、だめだよ、……ちゃん」

 僕は思わず、耳を凝らした。
 だって、今、聞こえた気がした……。

「いかないで、ポンちゃん……」

 僕は息を呑んだ。口に手をあてて、その場に膝から落ちた。
「僕の名前、だ……」
 いつのまにか口をついて出ていた。
 だって今、タイちゃんは僕の名前を言った。もうずっと三年以上呼ばれていない名前。
 それが今、タイちゃんの口から出ていた。
「やだ、いかないで、ポンちゃん……」
 タイちゃんの手は未だ宙を泳いでいた。僕はその手を両手でぎゅっと掴んだ。

「行かないよ。もうどこにも行かないよ」

 僕の声が聞こえたのか、タイちゃんがホッとした様子で目尻を下げた。タイちゃんに僕が見えているのか、僕の手の感触を感じているかなんて分からない。けれどタイちゃんは確かに握り返してくれた。
「……もう、どこにも行っちゃ嫌だからね」
 口元を緩ませてそう言うタイちゃんを見て僕はぽろぽろと涙を流した。
「……行かない、行かない。もうずっと一緒だから」
 僕は泣きながらタイちゃんの手を僕の頬に添えた。

 聞こえてるかな?
 僕の声。
 夢の中でだけでもいいんだ。
 聞こえてるといいな。

 タイちゃんの手がぴくりと動いた。
 うっすらとタイちゃんの瞳が開く。僕はそれをじっと眺めていた。
 次の瞬間、タイちゃんの目がカッと見開いた。まるで僕が見えたかのように、僕と目がかっちりとあったはずだった。
 けれど。

「……っ!」

 すごい勢いで手を払われた。
 タイちゃんは上半身を即座に起こすと、ベッドの隅へとあとずさった。はぁはぁと荒く息を吐いて、僕を正面から見つめていた。
「タイちゃん……?」
 僕が一旦離れた手をもう一度掴もうとすると、険しい顔で振り払われた。
「見えてないっ……僕には何も見えない!」
「タイちゃん、だって……」
 その反応はどう考えたって。
 僕が見えているのでしょう?
 タイちゃんは頭をぶんぶんと振った。
「見えてない!僕には何も見えない!ポンちゃんなんか見えない!」
 ダラダラとタイちゃんの目から涙が流れる。
 僕はきゅぅっと胸が締め付けられた。
 何がタイちゃんをそんなに苦しめているのだろう。
 もしかして全部僕が元凶なのだろうか?
 そうだったら僕は。

 そうだったら僕は。











 外に出ると、生暖かい風がそよいでいた。
 怯えるタイちゃんを部屋に残し、フラリと出てきて当ても無く歩いてきたが、ふと公園を見つけた。緑の多い公園だ。サルナシにハイイヌガヤ、モミジイチゴ。僕の山にあった植物がたくさん植わっていた。
 遠くで子供たちが鬼ごっこをする声が聞こえた。
「このままずっと帰らなければ、消えられるのかな……」
 宿り木に戻らなければ、僕は力を失う。その後、どうなるかなんて分からないけれど、タイちゃんを苦しめる存在になるくらいなら消えてなくなりたかった。
 ちょうど日が暮れ始めた時間だ。子供たちの鬼ごっこも終盤になり、「これが最後だからねー」と向こうの方で聞こえてきた。
 僕はブランコに腰を下ろすと、ポロポロと涙を流した。
 ゆらゆらと揺れていると僕の山にあったブランコを思い出す。タイちゃんと一緒に遊んだ楽しい想い出。
「……あの頃に戻りたいよぉ」
 あの時は二人だけの山だった。
 他の人間なんて関係が無かった。タイちゃんは僕の存在なんて疑わずにいて、僕だってタイちゃんとずっと一緒にいれると思っていた。
 山に帰りたい。
 けれど僕の山ももうなくなってしまった。
 一つ一つとなくなっていって、ついには全てがなくなってしまった。


「そこの兄ちゃん、どうしたの?」

 気付くと、何人かの小学生たちが僕の周りにいた。
 さっきまで鬼ごっこをしていた子供たちだ。
「君たち、僕が見えるの?」
 僕は涙を拭いて、ニコリと笑った。
 帽子をかぶった男の子が元気よく答える。
「見えるよ、当たり前じゃん」
「……そう、みんな良い子なんだね」
 僕がそう言うと、男の子達は意味がわからないと言う顔をした。
「あ!耳!」
 一人後ろにいた子が僕の頭を指差した。
 その指差された先を他全員が見ると、皆で声をそろえて叫んだ。「耳――――!!」
 どうやら上手く化けられていなかったらしい。狸の耳がちょこんと頭の上に乗っていた。
 僕は手で耳を隠すと、体を小さくさせた。
「分かった!兄ちゃん、化け狸だろ!?」
 威勢良く声を上げたのは帽子をかぶった男の子だ。目がキラキラしていて、何も臆している様子は無かった。
「グランドマザーが言ってた!この辺の山には昔化け狸が棲んでたって!」
「グ、グランドマザー?」
「俺のばあちゃんのこと!」
 その男の子の声で、他の子が「えーマジで?」「すげー」とワラワラと僕の周りに寄ってきた。
「ちょっ、いたたたたた、耳、引っ張んないで……っ!」
 何人かに千切れそうなほど耳を引っ張られて僕は泣き喚いた。「触り心地、半端ねー!」と誰かが叫んだ。子供たちはどうやら僕の耳を気に入ってしまったようだ……。
「兄ちゃん、名前なんていうの?」
 帽子の子がまた僕に聞いた。
 僕は涙目のまま、笑った。

「ポンポコポンちゃん」

 タイちゃんにつけてもらった名前をこんなに誇らしげに言える日が来るなんて思わなかった。
「ふぅん、変な名前。ポンちゃん?」
「失礼だなぁ。良い名前だよ」
 子供の率直な意見に素直に返す。帽子の男の子はそうかなぁと呟いた。
「ポンちゃんはここで何してるの?」
「僕?僕は……」
 何してるんだっけ?
「えーと……」
 僕が口ごもると、「頼りないなー!」と男の子が腰に手を当てた。

「分かった!自然が無くなって帰る場所が無いんでしょ?」
「狸鍋にされそうになったんだろー」
「悪い人間にシイタゲられてるんだろ?」

 口々に勝手な事を言い出す子供につい僕は笑ってしまった。しかも何気に当たっているものもあるのだから驚きだ。
「そんなんじゃないよ。ただ、なんかいろいろ上手くいかなくなっちゃって……」
「あ、分かった。誰かと喧嘩したんだろう?」
 ピンと言い当てられて、思わずピクッと手が動いた。
 あれは喧嘩と言うのだろうか。
 一方的に怯えられて、一方的に出てきただけだから。
「あのな!」
 一歩前に出てきたのは、さっきから話しかけてくる帽子の子だ。その子が後ろにいたそばかすの男の子を引っ張り出して、僕の前に出した。
「こいつな、俺のこと一ヶ月無視したんだ!」
 そばかすの子は照れ隠しか、プイッと顔を背けた。
「ま、俺が最初にこいつを怒らしちゃったんだけどな!」
 それに反して帽子の子はあっけらかんと笑っていた。
 帽子の子はそばかすの子の肩を引き寄せるとポンポンと叩いた。
「グランドマザーが言ってたんだ。また仲良くなりたいと思うんなら何度でもアタックチャンスだ!って。無視されても嫌がられても男ならアタック&アタックだって!だから俺一ヶ月間ずっとアタックチャンス!」
「君のおばあちゃんは偉大だね……」
「でも、だから今はこいつと一緒に遊べてるんだぜ!」
 帽子の子はそばかすの子と目をあわせて「なっ!」と笑った。そばかすの子も嬉しそうに「うん」と頷いた。
「だから、ポンちゃん!」
 帽子の子が僕を真っ直ぐに見てきた。
「お前もさ、もっと頑張れよ!」
「……うん」
 また涙が底の方から這い上がってくる。
 子供の言葉にこんなに励まされるとは思わなかった。でも子供の純粋な言葉だからこそ、素直にそうだな、と思える。
 帽子の子が「元気出せよ!男だろ!」と僕の背中を叩いたその時。
 聞きなれた足音が聞こえた。

 タイちゃんの靴は新聞配達を毎日しているせいで底がとんでもなく磨り減っている。砂場を走ると、踏ん張りが利かなくて、半ば滑っているような音がする。
 その靴の音がこの公園の中に飛び込んできた。

「――ポンちゃん!」
 大声で発せられた言葉は僕の名前で。
 僕は信じられない気持ちで立ち上がった。
 男の子達は「お、迎えが来たな」と陽気に笑っていた。
「じゃ、俺たちもう家に帰るよ」
「ちょっと待って!」
 ワラワラと帰っていこうとする子供たちをタイちゃんが大声で引きとめた。
 帽子の子一人だけが振り返った。
 タイちゃんは、男の子にあわせてしゃがむと帽子の子の肩を逃がすまいと掴んだ。
「……えー、兄ちゃん、何なの?」
「――君、見えるのか?」
 帽子の子はハァっ?と眉をしかめた。
「ポンちゃんが見えるのかって聞いてるんだよ!」
 大声でそう言われて、帽子の子は片方の耳を手で抑えた。いきなり怒鳴られてかなり機嫌は悪くなったのだろう、口を尖がらせたまま、それでも答えてくれた。
「見えるよ。ここにいる皆、見えてるよ」
「……そっか……」
 タイちゃんがガクリと手を下ろした。解放された男の子は僕に向かって「じゃ、またね!ポンちゃん!」と手を振って、帰っていった。
 日が暮れる中、僕とタイちゃんだけがそこに残された。
 僕はタイちゃんの所まで静かに歩み寄ると、「タイちゃん……?」と戸惑いがちに聞いた。
 タイちゃんはゆっくりと顔を上げた。目がキラキラと光っていると思ったら、涙が溜まっていた。

「ポンちゃん、聞いてくれる?」

 僕はハッと息を呑んだ。
 タイちゃんの声は震えていた。
 奥底に隠していたかった気持ちを勇気を出して外に出していく、そんな感じ。

「……僕、あの時、突然、ポンちゃんが見えなくなったんだ」

 それは一緒に家出をしようと言ったあの時のことだろう。
 結局房江おばさんに見つかって、僕たちは離れ離れになった時のこと。

「あれからずっとポンちゃんが見えなくなって、僕、ポンちゃんなんて本当はいなかったのかもって思ったんだ」

 タイちゃんの瞳から溜まっていた涙がスッと落ちてきた。
 僕は目を合わせながら、うん、と静かに頷く。

「けどリンゴとか木の実とか見て「これってポンちゃんからかも」って思ったら、またポンちゃんがぼんやり見えるようになったんだ」
「え……」

 僕は目をパチパチとさせた。
 だってそれは初耳だった。
 僕はあれからずっとタイちゃんは僕のことが見えていないと思っていた。だってタイちゃんは僕の声に返事をしてくれなかった。あれから一度も。

「……見えてたけど、それはいつもじゃないんだ。見えたり、見えなくなったり。房江叔母さんはポンちゃんなんていないって言うし、でも僕はいてほしいと思ってたし……」

 タイちゃんはシャツの袖で涙を乱暴に拭いた。

「房江叔母さんは全部僕の想像だって言ったんだ。気味が悪いからもうやめなさいって」

 僕は目を細めた。
 房江おばさんが言いそうなことだ。
 タイちゃんの言っていることなんて一つも聞かなくて、はなからタイちゃんを全否定する。言うことを聞かないと、癇癪を起こして、怒鳴りつける。
 タイちゃんはグスッと鼻をすすった。

「だから、ポンちゃんを見えても、それは僕の想像だから、僕はずっと無視してた」
「……そうだったんだ」
 時々、タイちゃんは僕のこと見えているんじゃないかと思っていた事はあった。
 その度、ワクワクしてタイちゃんに話しかけたけど、タイちゃんは僕に返事をしてくれたことなんて無かった。
 だって、それは。

「だってポンちゃんが見えるってことは僕は頭がおかしいんだって、房江おばさんが言ってたから」
「うん」

 僕の目からもまた涙が落ちた。
 タイちゃんを恨む気なんて無い。ただ、ずっと苦しかったんだねって。
 ずっとずっと誰とも相談できなくて、全部自分の中で溜め込んで。
 苦しかったよね。つらかったよね。
 タイちゃんだってまだ小さい子供だったのに。

 タイちゃんが顔を上げた。
 涙が頬に幾重もの筋を作っていたが、もう気にしないことにしたらしい。
 
「でも、さっきの子供たちにはポンちゃんが見えてたから……!」
 タイちゃんが僕の手を取った。両手で僕の手をぎゅっと握り締めた。

「……ポンちゃんはちゃんとここにいるんだよね?」

 問いかけられて、僕はこくんと首を縦に振った。

「……タイちゃん、僕はね」
「うん」
「タイちゃんが信じてくれたら、いつでもここにいるんだよ」

 僕がそう言うと、タイちゃんが目を丸くした。

「そうなの?」
「うん」

 僕は笑った。

「僕が疑わなかったらいつでも?」
「うん」
「ずっと?」
「うん」

 タイちゃんも何度も何度も僕に聞いて、最後に笑った。

「じゃ、僕、もう疑わないよ。僕もポンちゃんとずっと一緒にいたいから」
「うん、うん……」

 終いには二人で泣いた。

「帰ろっか?」
「うん」

 タイちゃんは僕の左手を握って。
 僕はタイちゃんの右手を握って。

 ねぇ、覚えているかな。
 タイちゃんと初めて逢った日、僕たち一緒に手を繋いで帰ったよね。
 あの時、僕はタイちゃんの手があたたかいと思った。
 タイちゃんは僕の手を温めてくれると言った。

 タイちゃんの手は今でもこんなに温かいんだね。
 もう冷め切ったままだと思っていた僕の手をこんなに簡単に温めてくれた。

 タイちゃんってほんとにほんとーにすごいや。










 ずっと一人ぼっちだったんだ。
 山の中で一人ぼっち。
 モミジイチゴやクワの実を食べたり、大きな木に登ってみたり。
 一人で遊んでみたけど何にも無いんだ。
 楽しいとか悲しいとかそういうの。
 でもね、タイちゃんと会ってからはそんな生活がすごく変わった。
 一緒に木にぶらんこを作って遊んだよね。
 色とりどりの昆虫を夢中で捕まえたよね。
 一緒に遊んだ日々は僕の中でキラキラ光っている。
 何にもなかった世界が嘘みたい。
 世界はいろんな色でいっぱい。嬉しいことや楽しいこと、幸せなことばっかり。
 だからね。
 タイちゃんが僕のことを見えなくなって忘れても、それでも。
 僕はタイちゃんのために何かができたらいいなって。
 ずっとそう思っていたんだ。

 ねぇ、タイちゃん。

 ちゃんと報われたよ。
 待っていた甲斐があった。
 信じ続けてよかった。
 諦めなくてよかった。
 本当に本当によかった。

 ねぇ、タイちゃん。
 これからはずっと一緒だね。

 僕がここにいること。
 もう忘れないでね。

 ううん、たとえ忘れても、僕はまた信じ続けるよ。


 タイちゃんが大好きだから。





おわり



これで完結。これでもびぃえるでした。
written by Chiri(8/29/2008)