いつか王子様が(3)



家に帰るやいなや道也はベッドに突っ伏した。
母親に何も言わずに部屋に戻ったから、母親が「みーくーん?かえったのー?」と大きな声をあげている。
母親の声がやけに癇に障る。けれど、まさか何があったかなんていえるわけなんかない。
(体がいたいや…。)
節々が痛かったし、何より誓耶に使われたその場所が痛い。
体の奥には誓耶の発したものがまだ残っていたがそれをどうこうする気力さえなかった。
(このまま消えたい。)
そう思いながら、布団の中で自分の存在を覆い隠すようにして丸まった。
シーツをぎゅっと握り締めると、手先から赤みが消えていった。
(消えたい、消えたい)
自分を裏切ったこの世界から抜け出したかった。
カーテンから洩れる光はどんどん色味を失っていったが、道也がそれに気づくことはなかった。





「…ちゃん。わざわざ来てくれたの?ありがとうね。」
下で母親と誰かがしゃべる声が聞こえて、道也はやっと起きた。
見渡してみれば、どうやら随分時間が経っているようだった。時計は夕方の7時を指していた。まるまる一日近くたっていることに道也は驚いた。学校は…どうやら母親が連絡して休んだみたいだ。
無性に体が熱くて、汗でびっしょりだった。いつのまにパジャマに着替えたのだろう、そうだ、昨日すぐに着替えてそのまま寝たんだ。
ぼーっとしながら体を起こすと、まるで鉛みたいに体が重かった。これはどういうことなのだろう。
ガチャッと言う音が聞こえたのでゆっくりとそちらを向くと、隆一が立っていた。学生かばんを左手に持ったまま、右手を軽くあげた。
「よぉーっす。」
「…隆ちゃん。」
「熱出たんだってな?すげーじゃん。6年ぶりくらいじゃねーの?」
何がすごいのやら。道也は虚ろな顔のまま口元だけで笑った。
「つらいか?」
「…ん。」
隆一が道也の額に手を当てる。それに道也は嫌悪感を感じて、思わず隆一の手を振り払っていた。
「どうかしたか…?」
隆一は特に気にした様子も無く、不思議そうに道也を見つめていた。
道也は顔を歪ませた。思いの他、昨日の出来事は道也に爪跡を残していたようだ。
(人の体温がきもちわるい)
そう思ったが、道也は口にしなかった。
瞳の奥に暗い影が宿る。道也がこんなにも人に言いたくないと思うことができたのは初めてだった。
「道也、大丈夫か?」
隆一が心配そうに道也を覗き込む。道也はもう一度口元だけで笑った。
「だいじょうぶ。」
「大丈夫じゃねーだろ。俺の前で嘘つくなよ。どうせ分かるんだから。」
隆一は眉間に皺を寄せた。瞬間、涙が出そうになったが道也はそれを飲み込んだ。昨日のことを思い出しそうになる。
昨日のこと。忘れたいことでいっぱいだった。
けれど一つ分かったことがある。それは。
「隆ちゃん…。」
「なんだ?」
隆一はいつもと違う道也の様子に目を細めた。

「王子様なんていないんだね。」

窓の向こうは昨日先輩の家から走って帰った時と同じような空模様だ。
上のほうは光に満ちていて明るいのに、雲霞はピンク色で気味が悪い。皮肉にもまるで御伽噺にでもいるかのような景色だった。
昨日、道也は走って走って、流れ出てくる涙に気づかないようにしていた。地面に落ちる涙が道也の走った道をを静かにあらわしていた。

王子様なんて最初からいなかった。
夢見ていた自分が馬鹿みたいだ。

「隆ちゃんの言う通りだったね。」

隆一は眉間に浮かぶ皺を一層深くさせた。
「どうしたんだよ、お前。昨日、時谷先輩になんか言われたのか?」
誓耶の名前を聞いてゾッと悪寒が走った。道也の体が小刻みに震えだしたが、布団に覆われていて隆一は気づかなかった。
「なんかお前らしくないんじゃないか?」
道也は苦しそうに息を吐いた。
「隆ちゃん、僕らしいって何?」
隆一は道也をじっと見た。
道也がこんなにも静かに、そして反抗的に言葉を返すなんてあまり無いことだ。
道也の何かがおかしいと思った。
「王子様を信じているのが僕らしいの?なら今の僕は何?今の僕は何も無いの?」
道也はぎゅっと布団を握り締めた。
隆一は小さく息を吐くと、道也のベッドに腰をかけた。そして、布団の中の道也の体をぽんぽんと撫でた。
「きっと熱にうなされて嫌な夢見たんだな?大丈夫だ。それは夢だよ。」
「夢…?本当に…?」
(そんなわけない)
けれどそう思うとなんだかとても心が休まった。夢、全部夢。昨日のことも全部全部夢。
(ちょっと楽な気分になるかも)
道也が隆一に微笑みかけようと顔を上げた瞬間、またドアがガチャリと開いた。
顔を向けると母親がそぉっと道也に良く似た顔を覗かせていた。

「みーくん、元気になったぁ?」

母親の甘ったるい声に道也は笑みがこぼれた。
しかし次の瞬間、サッと青ざめる。母親の背後には誓耶が立っていた。

相変わらず王子の笑顔が張り付いている。あれと同じ顔で誓耶は道也を犯したのだ。
母親はそんなこと何も知らずに道也にそっとささやいた。
「みーくん、王子様見つけたのね?ママもこの子なら賛成だわ。」
「…お母さん。」
違うんだ、と道也はいえなかった。
「じゃ、ママはちょっと買い物言ってくるから。ごゆっくり!」
母親は道也を髪の毛をさらりと撫でてから、そのまま出て行こうとする。道也はその手をひきとめられるものならひきとめたいと思った。けれど、母親はそんな道也の心中など知らず、そよ風が吹くように部屋を出ていってしまった。

部屋に残るのは道也、隆一、そして誓耶だ。

「やぁ。」

誓耶はにっこりと笑った。仮面のような笑みだ、と道也は思った。
「どうしたの?僕がわざわざ会いに来たんだよ?嬉しくないの?」
誓耶は心外とでも言う風に傷ついた顔をした。
道也は何故誓耶がそんなことをいえるのかが分からなかった。
(先輩はどこか頭がおかしい。何かがずれている。なにか、…へんだ。)
ガタガタと道也の体が震え始める。
昨日の事が鮮明に思い出された。
無理やりだったはずだ。あれは強姦だった。なのに、何故誓耶はこんなに平然と自分の前に現れることができるのだろうか。
(怖い)
歯がガチガチと鳴った。その様子に隆一は驚きを隠せなかった。
「どうしたんだ?気持ち悪くなったのか?」
「…隆ちゃん。」
隆一が立ち上がり、道也の背中をさする。その行為が一層道也を気持ち悪くさせたが今はそんな隆一でもいいからすがりついていたかった。
その様子を見て、誓耶は不機嫌そうに眉をよせる。
「何をそんなに怯えてるんだい?道也は俺が好きなんだろう?」
傍で聞いていた隆一は誓耶の発言に目を瞠った。
道也はとっさに聞こえないふりをした。
道也がそのまま誓耶を無視して隆一につかまっていると流石に誓耶も苛立った表情を見せた。
「おもしろくないな。」
そう言って、誓耶は道也の寝るベッドに身を乗り出す。
ヒィッと道也は小さく悲鳴をあげた。
目前に迫る誓耶を避けようと、道也はズサリとベッドからずり落ちる。
「道也!」
慌てて隆一が駆け寄った。

地べたに仰向けに転がる道也を上から見て隆一はハッと気がついた。

首元だ。

赤い鬱血がまるで病気かと思えるほどたくさんちりばめられている。
そしてよくよく見ると、両手首に縛られた痕がある。
「道也…お前、まさか…。」
隆一の視線に気づいて、道也は慌てて首元をパジャマで隠した。
道也は隆一を見て、小さく首を振った。
お願いだから言わないで、と表情で道也が訴えていた。

地面がズダンと揺れた。そして。


「てめーーーーーーーーーー!!!!!」


ドカッ


隆一がベッドを飛び越えたように思えた瞬間、誓耶が部屋の入り口までふっ飛んでいた。
道也は目を大きく見開いた。

「隆ちゃん!!」

隆一は転がる誓耶の上を跨ぐと顔を何発も殴りつけた。
誓耶の歯が一本血を噴出しながら抜けるのが道也にも見えた。道也は慌てて、隆一の腕をつかんだ。

「隆ちゃん、やめて!やめてよ!先輩、死んじゃう!」
「ふざけんな!お前は許せるのか!こんなくそやろう!!」
「許せないけど、だけど!!やめて、お願い!!」

道也がわぁーんっと泣き出し、やっと隆一の動きを止めた。それでも怒りで拳が震えている。
肩で息をしていて、怒気は一向におさまらないといった様子だ。

「…何…するんだ、お前…は…。」

ボコボコに顔を殴られた偽王子は鼻血を垂らしながら隆一を見上げた。
王子の甘いマスクは醜く汚いものへと変貌していた。

「てめーなんか死ねばいいのに。」

隆一は吐き捨てるようにそう言った。
誓耶の顔が暗く歪む。

「こんなことして…ただで…すむと思ってるのか…。」
「それはお前のほうだろう。やっぱり殺しておくか。」

普段では考えられないような科白を隆一は吐いた。
道也は慌てて、隆一を抱きついて止める。そして誓耶に訴えかけた。

「帰ってください!先輩!お願いだからもう僕に構わないで!!」
「…道也、君までそいつをかばうのかい?」
「お願いだからどっかにいって!!」

道也の悲痛な声に誓耶は苛立ちを隠せなかった。

「君は僕のことが好きだったんじゃないのか!!」
「好きじゃない!!僕を無理やり犯したくせに!!どっか消えてよ!!」

その言葉に誓耶はサッと押し黙った。辱められたように赤い顔をしている。
まるで今まで気づかなかったといった表情だった。
誓耶は道也をじっと見つめた。

「お願い!!もう僕に近寄らないで!!」

道也はワンワン泣き叫んだ。
誓耶はチッと舌打ちして、そのままよろけながら家を出て行った。出て行くときにドアを無駄に鳴り響かせて閉めた。まるで自分は100%悪くないと最後まで主張しているようだった。

「このやろう!待てよ!!」
「隆ちゃん、もうやめて!」

道也は隆一に抱きついたままそのまま泣き崩れた。
隆一は次第にそんな道也の泣き声で正気に戻るかのようにして、ゆっくりと落ち着いた表情になっていった。
隆一のシャツをびしょびしょに濡らしながらぐずる道也のそっと頭を撫でてやる。
さっきまでの鬼みたいな形相が今となっては嘘みたいだった。
「…道也。あんな奴王子じゃないから。」
隆一の声が上から降ってくる。
道也は涙を止めることが出来なかった。
「本物の王子は他にちゃんといるはずだから。」
隆一は今までに聴いたこと無いほどの優しい声で道也を慰めた。
道也は隆一から離れなかった。隆一の手が思いのほか気持ちよくて、ずっと泣いていれば隆一は撫でつづけてくれるとどこか隅の方で考えてさえいた。
「大丈夫だよ。大丈夫だから。」
隆一の言葉をまじないのように聞きながら、道也は静かに首を振った。
(ちがうよ、隆ちゃん)

僕ね。分かったんだ。
やっぱりね。王子様なんてものはいないんだ。
それは本当だと思うよ。
僕は王子様なんてものを考えなしで求めていたけれど、やっぱりそんな都合の良いものなんて存在しないんだ。
だって、隆ちゃんだってそう言っていたでしょ。
くだらないって。
そう、王子様なんてくだらないんだ。
僕はもう王子様なんて求めない。
王子様なんてもう、いらない。
もういいんだ。

道也の言葉を聞きながら、隆一は悲しそうに目線を落とした。
「そんなこと、…いうなよ。」
隆一は道也の背中をそっとさすった。そして今度はいきなり道也をぎゅっと胸元に抱きこんだ。
道也はヒュッと息を止めた。

「俺はお前のそういうところ好きだったよ。いつでも王子様が来るのをひたすらに信じてて、疑っていなくて。そういうところが全部可愛かった。」
「隆ちゃん…。」

道也は顔を上げて隆一を真正面から見ようとした。けれど、隆一が抱きしめて離さないから隆一の顔がよく見えない。

「本当は言うつもりなんてなかったんだ。俺はきっとお前の求める王子様なんてものには程遠いだろう。俺自身、自分が王子様なんて柄じゃないなんてのは十分にわかってるんだ。」

隆一の鼓動がドクドクと聞こえてくる。それともこれは道也のものだろうか?
こうやって心臓をくっつけているとまるで一つの生物になれたかのようだ、と道也は思った。

「だけどな、道也、一つだけ言わせてくれ。」

道也は静かに隆一の与える言葉を待った。
時間が一瞬だけ止まったような気がした。

「お前はいつでも俺にとって一番守ってあげたい存在だったよ。」

やっと隆一が抱きしめていた力を緩めて、道也は隆一の顔を見ることができた。
隆一は泣きそうな顔で笑っていた。

お姫様だ、と道也は呟いた。
僕は隆ちゃんにとってお姫様だったんだ。

サァァァと周りの音がやんでいった。
隆一の顔が無声映画みたいに道也の瞳に優しく穏やかに映し出される。

思えば、隆一はいつも道也の近くにいた。近くにいすぎて、それがどうしてかも考えたことが無かった程にだ。
女の子にいじめられていたころもずっとそばに居てくれた。
高校に入ってからもずっと一緒に登校してくれた。
誓耶が現れる前までは満員電車でいつも支えていてくれた。
誓耶に恋をしていた時も真剣に話を聞いてくれた。
道也のために誓耶を殴ってくれた。
何故気づかなかったのだろう。
先輩が一度電車で支えてくれたのだって、隆一はそれまで毎日していてくれたのに。
たった一度のそれで先輩を好きになるほうがおかしいのに。

道也は花薫る笑顔で微笑んだ。
涙がまるで朝露のように綺麗に光っている。

隆一は自分から道也をそっと引き離した。

「ごめんな。変なこといって。ただ、俺はお前に信じていて欲しかったんだ。いつかちゃんと来るから。」

王子様が、とは言われなくても道也は分かった。

「隆ちゃん。」

「ん?」と隆一は返した。
道也は自分の目線が随分上を向いていることに気づいた。
背が伸びたんだね、隆ちゃん。

「僕、びっくりしちゃった。だって誓耶先輩あんなに吹っ飛ぶんだもん。」

そう言って涙に濡れた顔のままくすくすと笑う。
道也の笑顔に隆一はホッと安心した。
いつもの道也の笑顔だった。虚ろな瞳をした道也はいつのまにか静かにどこかに落ちていって消えていた。

「隆ちゃんって結構強いんだね。」
「あ?そうか?」
「見た目、細身で華奢なのに。」

隆一は照れたように頭を掻いた。
道也はにっこりと笑った。隆一はその笑顔にどきっとした。

「覚えてないの?僕の王子様の条件。」
「へ?」
「覚えてないならいいや。」

道也はそう言って、ベッドにもぐり込んだ。隆一はハァ?と声をあげてそれを追っかける。
隆一は布団をはがして道也に話し掛けようとするが道也は頑なに布団を離さない。

「もうなんなんだよ!道也!?」
「…隆ちゃん、僕、王子様信じるよ。」

隆一が一瞬動きを止める。
道也はぴょこんと頭だけ出した。
その顔はまるで悪戯妖精のように笑っている。

「僕、待ってるから。隆ちゃん頑張って僕の王子様になってね。」

隆一は目をぱちくりとさせた。
そうこうしている間に悪戯妖精はまた頭を引っ込めてしまい、布団の中で篭城を決め込んだ。

「道也、それってどういう意味…」
「しらなーい。」

布団の中からは道也のくぐもった声が聞こえる。

外はもう暗くなってきていて、もうすぐ道也の母親が帰ってくるだろう。
隆一は布団のふくらみをもう一度眺めてふぅっとため息をついた。
困ったように幸せな笑みを浮かべた。

(ったくうちのお姫様は困ったものだ。)

隆一は布団の上からそっと道也にキスを落とした。
道也はそれに気づいたのか、ぴくりと体を揺らした。


優しい優しいキス。
それは悪いことを全て浄化してくれる薔薇色のキスだった。





終わり



誓耶は自分を王子だと思い込んでる変態です、残念。
written by Chiri(5/21/2007)