潜在的のびイズム(2)



 チカチカと携帯が光っている。
 どうせ、不二夫からのメールだろう。宿題やれだの、ジュース買って来いだの、ゲームのレベルアップしとけだの。
 ……もう僕は不二夫のいう事は聞かない。
 僕は不二夫からの電話とメールを着信拒否設定にすると携帯はかばんの奥に突っ込んだ。

「ねぇ、今度。 僕も合コン連れて行って」

 声をかけたのは、クラスで一番チャラい男、真田。真田はそのライオンみたいに明るくて飛び跳ねた髪型を揺らしながら、僕の顔を見た。

「へぇ、不二夫のことはいいんだ?」

 僕の目は真っ赤に泣きはらした後だった。僕が力強く頷くと、真田は手を伸ばした。僕の頬に手を添えると、

「いいよ、お前にあった可愛い彼女見つけよう」

 と、にっこりと笑った。

 僕の決意は固かった。
 うちの不二夫の顔パス制度は解除してもらった。僕が母に頼むと「何? 喧嘩?」と母は面倒そうに息を吐いた。

「違う、不二夫から卒業するの、僕」

 僕が口を尖らせながら言うと、母は少し笑いながら「できんの? あんたに」と僕に言った。僕は母をジロリと睨んだ。

「とにかく、そういうことだから」

 そうやって、不二夫からの連絡手段は全部遮断した。僕は不二夫から卒業したのだ。ハッピーグラデュエーションという奴だ。
 僕は鳴らなくなった携帯を握り締めながら、息を吐いた。不二夫を遠ざけて安心するはずが、不安が余計に大きくなる。
 けれど、そんな不安だってきっと今だけだ。今に不二夫の居ない日々に慣れるだろう。
 あんなに一緒にいた幼馴染だが、最初から居なかったと思えば別に会わないのだって当たり前のことだ。僕は自分の生活に現れた違和感に対して、見ないフリをすることを決めた。



***



 何かが鳴っている。木が軋む音。そして何かにぶつかる音。

「おらあああ!」

 ドォォン

 奇声と爆音で目を覚ました僕はパジャマ姿。そして見ると、僕の部屋の扉はなくなっていた。思わず二度見した。やはり、扉が無い。その代わりに木の破片が床に落ちている。
 僕はワナワナと体を震わせた。

「不二夫ぉぉお! うわあああ、またやったな、お前ええ! 僕の部屋のドアアアア!」

 僕が叫ぶと、不二夫は至上最強に機嫌悪そうに僕を睨んだ。フシューフシューと獣が息を吸う音が聞こえて、僕は後ずさりした。

「おい、冬真」

 不二夫は僕ににじり寄る。不二夫は突然不自然に笑った。

「お前、俺様から『卒業』したんだって?」

 僕はドキッとした。どうやら母親から聞いたらしい。僕は息を吐いてから、キッと不二夫を睨んだ。そうだ、不二夫から卒業すると共に、ただ命令されるだけの泣き虫冬真くんもふにゃちん冬真くんも一緒に卒業するのだ。

「……そうだよ。 悪い?」

 不二夫は僕を壁に追いやり、壁に手をついた。僕は不二夫から視線を外さないように睨み続ける。それくらいしか、反抗する方法を知らなかったのだ。

「お前には俺様を卒業する権利なんて無いんだよ。 お前は俺の『モノ』なんだよ! お前に選択権は無い」

 僕は目を閉じた。
 不二夫の言葉をそのまま聞いてはいけない。悲しくなるのは分かっていた。

「……なんだよ、彼女できたんだからもう僕はいいじゃないか」

 泣きそうになりながら言うと、「はぁあ?」と不二夫は眉頭を寄せた。

「彼女とお前じゃ全ッ然、違うだろ」

 僕は顔を俯けた。どんどん、悲しくなる。

「彼女がハンバーグならお前は米。 米がなくなったらハンバーグが美味く食えないだろ」

 僕は悔しくなった。ハンバーグは不二夫の好物じゃないか。どうせ僕は地味で何の味も無い米なんだろう。
 それに何だ? 今、ナチュラルに二股発言したんじゃないのか。
 頭に血が上る。僕はパニックになった。どうせ理論的に言い返せないのだから、感情にまかせて言いたい事を言えばいいんだ。

「なんなんだよ、こないだからハンバーグハンバーグうるさいんだよ! だいたい僕は不二夫のモノじゃない、僕は僕だ!」

 僕が叫ぶと、不二夫もムッとした。

「うっせーな、ハンバーグは俺様の大好物なんだよ! ちゃんと覚えておけ!」

 覚えてるよ、バカタレ!
 僕が更に言い返そうとしたら、不二夫は顔を近づけた。距離10センチくらいのところで凄まれる。

「お前は俺のモノなんだよ。 だから、逃げるなんて許さない」

 当然のようなジャイアニズム。そんな理論につきあうのはもう疲れてしまった。だって僕は幸せになりたい。好きな人と付き合いたいのに。
 僕の目からぽろぽろと涙が落ちていく。不二夫はぎょっと目を見開いた。

「もう嫌なんだ! 不二夫なんて、大嫌いだ!」

 今までだったら『大嫌い』、だなんて嘘でも言えなかった。不二夫はきっと怒るだろう。きっと、絶対に。

「てめ! 言ったな!」

 不二夫は僕の予想通り、顔を真っ赤にしていた。けど、僕は耳を塞いだ。目も瞑る。

「わーわー、不二夫なんて大ッ嫌い〜〜〜〜!」

 不二夫はクソッと呟くと、突然僕の頬を片手でぎゅっと握った。僕は驚いて言葉を切る。不二夫は獰猛な猛獣の目で、それでも噛まずに威嚇し続ける獣のようだった。

「……分かったよ、もうお前から助けてくれって言っても助けないからな! もうお前なんてしらねーよ」

 不二夫はそれだけ言うと、きびすを返す。蹴り倒したドアを踏んで、階段を足早に降りていく。
 しらねーと言われて僕は悔しくなった。

「馬鹿不二夫ー! うわぁぁん、僕のドア、かえせー!」

 僕が叫ぶと、不二夫の声がこだました。

「うっせー、公開オナニーでもしてろ、バーカ!」

 僕はハァハァと肩で息を吸うと、ふらつきながらベッドに腰掛けた。

(最悪だ……)

 こんな風にめちゃくちゃになるつもりまでは無かったのに。
 カーテンを開けると、不二夫が家の前の道を闊歩するのが見えた。こちらを一度も振り返らずに、怒りのリズムで立ち去っていく。

(でも、これで良かったのかも……)

 僕は遠い目で不二夫の姿を追った。
 『卒業』したって言ったのだから、これでその通り宣言したのだから。
 僕は枕に顔を押し付けると、無理やり涙が出るのを抑えた。
 明日には真田が組んでくれた合コンがある。そこで僕は、彼女を作るのだから。彼女ができて、その子を好きになって、好きになってもらって。そうして心穏やかになった頃に不二夫を見たら、「不二夫、久しぶり」だなんて気軽に挨拶ができるようになるのだろうか。
 どんなに考えてもそんな風になれないような気がして、僕は絶望した。首を振りながら、大丈夫と呟く。
 大嫌いと言った瞬間にその人のことを嫌いになれたら良かったのに。
 放った言葉とは裏腹に不二夫のことがやはり好きなままで。幼馴染を好きになることはまるで呪いにでもかかることに似ていると僕は思った。



***



「ユミでーす」
「アケミでーす」
「カズでーす」

 カラオケルームに現れた女子に僕は目を見開いた。きらびやかなメイクに明るい髪色、ブランド物のバッグ、そしてノースリーブのワンピースが高校生の僕にはまぶし過ぎた。真田は僕の耳に口を寄せる。

「三人とも女子大生なんだ! ってことで今日は俺たちも大学生って設定な」

 僕は口をポカンと開いた。

(初めての合コンで難易度高すぎるって……!)

 垢抜けた女子たちは合コンに慣れたように、自己紹介を促す。僕は背筋をピンと張った。

「あ、あの……僕は冬真って言います……」
「うーん、なんか地味ね」

 ガツンと殴られたような気持ちになる。初対面での言葉とは思えない。地味とか冴えないとか不二夫以外にも言われないといけないなんて。僕は泣きべそをかいた。

「アハハ、頼りなさそう〜」
「あだ名はジミィね」

 不二夫のふにゃちん冬真よりはまだマシなあだ名をつけられる。
 それでも、心は折れる寸前だった。言われ慣れている不二夫に言われるよりも効き目抜群だ。精神攻撃がクリティカルヒットする。

(うわ〜ん、彼女なんて作れる気がしない〜〜)

 僕は終始涙目な上で、茹蛸みたいな顔だった。女子には「もしかして赤面症? 真っ赤だけど」とクスクスと笑われて、羞恥心と情けなさで最悪だった。
 それでもこんな悲劇的な状況で、僕の考えてしまう人は一人で。
 あれだけ派手に喧嘩したのに、それでも彼は僕の頭の中から出て行かない。

(不二夫……に、会いたいや)

 僕は本当に馬鹿みたいに不二夫が好きみたいだ。
 まるで助けを求めるみたいに不二夫の顔が頭の中を駆け巡っていた。根っからの子分なのか、縋りつく人がいないだけでこんなに不安だ。僕は不二夫に支配されていたんじゃなくて、支配されたがっていたのかもしれない。

(こんなことしても嫌いになんてなれないのに)

 まるで逃げるみたいに合コンに参加してしまった。なんて恥ずかしい真似をしてしまったのだろう。

(せめて)

 僕は目の前にある空のジョッキグラスを虚ろに見つめた。既に成人済みの女子たちは普通にアルコール飲料を次から次へと頼んでいる。あけすけな言葉を言う彼女たちを少しでも見習えば良いのかもしれない。

(……せめて一言好きだと言ってから諦めても良かったのかもしれない)

 スーッと潮が引いていくように、冷静になる。
 僕はスクリと立ち上がった。真田が眉を顰める。僕は真田に小さく笑みを向けた。
 だって、どうしようもないんだ。

「ごめん、僕、帰るよ」

 真田は「は?」と大きな声をあげた。僕がビクリと肩を震わすと、真田は僕をトイレにひきずっていく。僕は真田の様子に怯えながらも、もう一度はっきりと言った。確かに真田には悪いことをしたという自覚はあった。

「ごめん、真田。 なんか僕、やっぱりまだ不二夫のこと好きみたい」
「はぁ? なんで目の前に女子がいるのにそんなこと言うんだよ」
「本当ごめん、でも、僕帰った方がむしろうまくいくんじゃないかな……?」

 僕に対して酷い態度の女子も真田に対してはそうでもない。真田は外見かっこいいし、喋りもうまい。さすが合コン慣れしているところがあった。

「いや、今日の女は全然好みじゃないんだ」

 真田はチッと舌打ちをした。

「俺の好みは俺様の言うことを嫌々ながら涙目で聞いてくれる、清純なのに淫乱な子だから」
「へ」

 僕はひきつって笑った。そんな性癖の暴露は別に聞きたくない。

「そ……それはすごい趣味だね……」

(っていうか今『俺様』って言った?)

 いや、僕の思い過ごしだ。僕が、首を振ると、グイッと顎を持たれた。

「だからむしろ今日の女子よりお前の方がよっぽど……」
「え」

 ――やばい。
 真田の目つきがおかしい。それに、なんだかアルコール臭がする。もしや、真田はお酒を飲んだのだろうか。

「いやいや、そんな適正僕には無いよ! 不適合! 無理!」
「いや、お前こそが俺の求めてた相手なのかも。 男だから除外してたけど、そういうのはやめるよ」

 いやいやいや。そういうのって大切だよ!
 真田の目は完全に据わっていた。ちょっとイッちゃった目つきで、にやりと口の端だけで笑う。
 う わーーー!!
 僕はやっと自分の置かれている状態に気づいた。
 男子トイレに僕と真田、二人っきり。ひょろいもやしの僕にマッチョの真田(特殊性癖あり)。ジリジリと近寄る真田はまるで蛙を付け狙う蛇のよう。しかも舌の上でしばらく味見するタイプのドSな蛇だ、きっと。
 僕の声が上ずる。

「ぼ、僕、トイレ!」

 転がるように個室に立てこもると、僕はすぐにポケットに入っていた携帯を取り出した。慣れた手つきで探したい相手を電話帳から引き当てる。
 呼び出し音を縋りつきたくなりながら、僕は祈った。

(不二夫! 不二夫)

「ああん?」
「わぁああああん、不二夫ーーー!」

 第一声の不遜な声は聞かないことにした。
 僕は泣き声を隠さないで、不二夫の名前を何度も呼ぶ。不二夫は不機嫌そうに「なんだよ、ふにゃちん」と唸った。

「助けて」

 僕は鼻を啜った。自分の置かれている状況をたどたどしくも説明する。不二夫はそんなに頭が悪くない。僕のこの声でどれだけ鬼気迫っているかは気づいているはずだ。
 けれど、不二夫の声は存外冷静だった。

「はぁ? なんで俺がお前を助けるんだよ」

 僕は滝のような涙が溢れ出した。
 首を何度も振る。

「もう僕一生子分でいいから」
「一人でやれるんだろ?」

 不二夫を説得する言葉が分からない。僕は何度も首を振る。そうじゃない、そうじゃないんだ。

「……俺、不二夫が、好き、なんだ。 不二夫以外には」

 触られたくない、と零すと不二夫は「はぁ?」と何も理解していなさそうな返答をよこした。

「お前って俺のこと好きなの?」

 不二夫は尊大な口調で聞いた。僕は当然のように首を縦に振る。

「好き! 好き! 大好きなんだ!」

 不二夫はプッと笑った。

「じゃ、不二夫様、助けてくださいって言えよ」
「不二夫様、助けてください」

 僕は光速で即答していた。プライドなんてものは生まれてくる前に捨てた。けれど、不二夫は不二夫のままだった。

「やだよ、バーカ」

 ぶちっと電話が切れた。
 僕は唖然として携帯を見つめる。

(ひどい!)

 僕は便器に涙を流しながら、自分の絶望的な状況を考えた。

「おーい、開けろよ、冬真ー」

 ドアの向こうからは真田の少しにやついた声。あの声は聞いたことがある。真夏にトカゲのしっぽを切って遊ぶ子供の声だ。

「どうせ、不二夫に電話したんだろ」

 真田は笑いながら言い当てた。

「不二夫は彼女いるんだから、諦めろ。 その代わり、俺様が遊んでやる。 可愛がってやるよ〜」

 妙に高いテンション。あれは夏の暑い日に蟻を一匹ずつ殺していく子供の声に似ている。
 僕は口を強く結んだ。
 真田の真実を語る残酷な口を縫い付けてやりたかった。

 不二夫にとっては自分なんてどうせそんな程度なのだろう。
 虫けらにたとえられて本望だ。どうせ、不二夫にとっては僕なんて欲しいやつにならあげてもいい弱ったクワガタとかカナブンとかそんなのなのだろう。
 自分の考えに悲しくなり、僕は涙を拭った。

「お〜い、おいで〜。 不二夫なんてもういいじゃないか〜」

 扉の向こうからは真田の声が悪魔の囁きのように響いてくる。
 その声を何度か聞きながら、僕は次第に考える力をなくしていった。

(いっそのこと、他の男に目を向けてみるとか)

 そういう事だって悪くはない気がした。
 どうせ、不二夫は自分のものにならないのだから。
 そういう意味では同じ俺様でドSな真田はうってつけじゃないか。
 そう思いながら、僕はスッと目の輝きをなくした。力の入らない掌をドアに個室の扉に添えて息を吐いた。
 そうして静かに数回呼吸をすると、僕は個室の扉を開けた。

「あ、もう諦めたの?」

 真田はニタニタ笑いながら僕の肩を掴んだ。僕は押し黙ったまま、唇を噛んだ。真田はハッと目を見開いた。

「泣くなよ」

 気づくと僕の瞳には水溜りができていて。真田は僕の頭を綿でも触るかのように撫でた。少しだけ優しげな真田の声に僕が顔を上げた。
 その瞬間。僕はサァーッと血の気が引いた。

「その泣き顔、たまんねぇ」

 真田は悪魔の顔で舌なめずっていた。快感で震えているのか、真田は自分の腕を抱いて、光悦とした表情で僕を見下ろしていた。僕は感覚的に理解した。彼は 変 態 だ !

「わああああ!」

 僕が震えながら、逃げ出そうとした僕の体を羽交い絞めにする真田。僕は初めてリードで繋がれた犬のように抜け出そうともがく。
 涙が止まらない。不二夫以外の体温が。息遣いが。気持ち悪くて。

「やだぁぁこわぁぁい! はなしてえええええ!」

 半狂乱になりながらそう叫んだ瞬間、真田が初めて怒りを露にした。

「暴れるな、こんの」

 真田が手を振りかざしたその瞬間。ふと誰かが間に入った。僕は目を疑った。

「てめえ! 何、人のもの殴ろうとしてるんだよ」

 真田の右手を正面から握り止めた不二夫は汗だくで立っていた。

「不、二夫……?」

 僕は目をゴシゴシと擦った。だって、がちゃんって切ったのだ。僕なんてどうでもいいって。僕がボロボロと雫を落とすと、不二夫は面倒そうにチッと舌打ちした。

「もうなんなんだよ、お前は。 なんでこうも変な奴ばっかり引き寄せるんだよ」

 不二夫は僕に悪態を吐く。僕はその悪態を受けても尚、感動に包まれていた。不二夫が僕を助けてくれた。走って駆けつけてくれた。

「お前ってゴキブリほいほいみたいな奴だな」

 不二夫が呆れたように言う。
 僕はあまりの言い草に鐘の鳴る妄想からやっと我に返った。

(ゴキブリほいほい……? ゴキブリの親玉みたいな不二夫に言われるなんて! ショック!)

 僕がパカンと口を開けて、呆然としている中、不二夫は真田に目を向けた。不二夫は真田の顔をじろじろ見る。そうして、また僕の顔も見る。まるで貴方の趣味よっぽど悪いんですね、とジェスチャーをつけて真田に言っているようだった。

「……なんだよ」

 真田は居心地悪そうに言う。不二夫は掴んでいた真田の右手を振り払った。

「……悪いが、こいつのファーストキスもディープキスも俺が初めてなんだよ。 だから、残りのものも全部俺がやる。 こいつは俺のだからな」
「でもお前……彼女いるだろ」
「はぁ? 彼女いるいねーは関係ないんだよ。 小さい頃習わなかった? 人のものに手を出すなって」

 あまりのジャイアン理論に僕も真田も言葉をなくす。不二夫は自分が当たり前のことを言ったようにふんぞり返っていた。
 そして、不二夫は僕の顔を見て、「あー」と呟いた。

「確かに名前書いてなかったのは悪かった。 今度からこいつの顔に太い油性マジックで俺の名前書いておくわ」

 僕の顔をボワッと茹であがる。一度捨てられたようなものだから、名前を書いてもらえるというだけで嬉しいだなんて。僕はどこまで馬鹿なのだろう。
 僕は恥ずかしくなって、顔を俯けた。手で顔を隠して、心情を読み取られないようにする。不二夫は睨むように僕に鋭い視線を放つ。
 僕はますます顔を赤くした。

「……いや、気が変わった。 今からでもすぐにマーキングするわ」
「へ」

 僕は顔を上げた。



【マーキング】
1 しるしや標識をつけること。
2 動物が、自分のなわばりなどを示すためにしるしをつけること。臭腺から出る分泌物をつける、ふんや尿を残す、爪あとをつけるなどの方法をとる。



 不二夫は僕の腕を引っ張ると、そのままカラオケルームの方へと向かった。ブツクサと何か言葉を放っている。

「くそっ、ふにゃちんのくせに俺の知らない顔をしやがって……」

 僕は不二夫が何に対して怒っているのかがよく分からなかった。




 信じられないことが起きていた。

「ひ、いた、あぁ、んあ、ああ」

 パン、パンと筋肉のぶつかり合う音がする。
 僕は不二夫の腕に必死に縋った。僕は下半身裸で不二夫のものを僕の中に押し付けられていた。不二夫は僕のシャツの下に手を潜らせる。僕の突起した乳首に確かめるように触れると、今度は吸い付いて、舐めまわされる。
 不二夫はあの後、カラオケルームに向かうと合コンを勝手に解散させた。女子は「ありえな〜い」「最悪!」と思い思いにぶちまけながら、帰っていったそうな。そうしてこの部屋をのっとると、僕のズボンとパンツを即効脱ぎとった。
 真田は不二夫に脅されて、ドアの前で見張りをしている。時々ちらちらとこちらを窺うように中を覗いてくる。最悪、最悪、最悪。
 僕は何度も首を振った。振りながら、声が漏れる。体の奥から根幹を刺激する振動に耐えられない。

「ん、んああ、ん、ふじ、お」

 腰を打ち付けられながら、不二夫に手を伸ばす。
 不二夫がどんな気持ちで、――僕とセックスをしているのかは分からなかった。
 でも僕はただ不二夫が好きで。これはやっぱりとても幸福な時間で。

「不二夫、ん、キス、ああ、して」

 泣きながら訴えると、不二夫は面倒そうに僕の唇を吸う。僕は不二夫の首に手をまわして、おそるおそる自分から彼の口に舌を入れた。不二夫は息を一回だけ小さく漏らすと、すぐに僕に応えてくれた。不二夫にあの時と同じキスをされて、夢見心地になる。
 荒い息遣いの僕を見て不二夫はフッと笑うと、「もう逃げるなよ」と言った。

「今度逃げたら、このちんこを本当に使えないものにするからな」

 なんだかとても恐ろしいことを言われた気がするけれど。僕はそんなことは聞こえてなくて。それからフリータイムの時間が来るまで、不二夫は何度でも僕の体を貪ったのだ。



***



 僕はボロボロな状態で帰路についた。月と星が出ている夜空の下、僕はトボトボと歩いた。隣には不二夫が無関心そうに歩いている。
 初めての合コンの為に買った服はグチャグチャだった。無地の青い襟シャツはボタンがとれていて、七部丈のジーンズは擦り切れてしまった。ちなみにこれは真田がやったのではなく、犯人は不二夫の方だ。とはいえ、一番かわいそうなことになっているのは僕のお尻だけれど。
 抱かれて、何かが変わったわけではない。
 結局、あの行為だって不二夫にとってはただの『マーキング』にすぎなかったのだろう。

「……だいたい彼女いるくせに」

 僕がボソッと言うと不二夫は耳ざとく「ああ?」と聞き返した。

「だから、彼女」
「別れた」

 僕は目を見開いた。

「嘘! はやくない!?」
「うっせーな。 お前の電話取ったとき彼女と一緒だったんだよ。 私とお前、どっちが大事なのとか面倒くせーこと聞いてくるから」
「え」

 ごめん、と僕が呟くと、「馬鹿か、お前」と不二夫は悪態吐いた。

「自分のもの取り返しにいくのは当たり前だろ。 お前に助けろなんて言われる筋合いはねぇんだよ」
「……うん」

 僕は頷いた。不二夫はきっと僕のことを恋人とは思わないだろう。僕はあくまでも不二夫の『モノ』だ。だけど、それでも彼女より僕を優先させてくれたのだから、もうそれでいい気がした。

「それに、俺様、意外と物持ちはいい方なんだよ」

 不二夫はニカッと笑った。僕はなんだか負けたように笑った。もうなんでもいいや。不二夫の隣にいられるならもうなんでも。
 そうして、見た目だけは前と同じに戻った。
 僕は不二夫の『モノ』で『子分』で『奴隷』みたいなもの。奥底で不二夫に対する恋情は持っているけれど、不二夫がそれに触れることは無い。不二夫は僕を当たり前のように好きに扱って、僕はそれを嫌々やりながらも、心の中ではかまってくれることを嬉しがる。
 そんな毎日。
 けれど、そんな中で一つだけ変わったことがそういえばある。むしろそれが一番違和感なのだけれど。
 不二夫は僕を時々抱く。一週間に二度くらい。しかも一日に何度も何度も。僕の中に出して、僕を何一つ身動きできないほど強く抱きしめながら一緒に寝る。新しく備え付けられた僕の部屋のドアにきちんと鍵をかけるのはいつでも不二夫の方だ。

「よ、マーキングしにきた」

 と、本当に僕の顔にマジックで文字を書きに来るような気軽さで不二夫はいつもやってくるのだ。

 その日も、不二夫は僕を何度も抱いて、僕は疲れ果ててしまった。不二夫に羽交い絞めにされながらそのまま眠る。不二夫の抱き枕のようにされながら眠ることにもやっと慣れてきた頃だ。
 そういえば、他の家族が旅行で次の日も居ないということを朝になって気づいた。

「わわ、不二夫、帰らなくていいの?」

 裸のままの不二夫は大きくあくびをすると、「ん、大丈夫」と答えた。不二夫はベッドから起き上がると、服を着て、僕に「おい、朝飯作れ」と命令。僕は当たり前のように頷いた。
 台所に行くと、不思議と不二夫があとをついてきた。不二夫は勝手しったる冷蔵庫を開けて、ひき肉、卵、牛乳、と勝手に中のものを出していく。僕は不二夫の行動にはてなを飛ばす。

「え、何?」
「ハンバーグ」
「はい?」

 僕は聞き返した。

「ハンバーグ作れ」

 僕は首をかしげた。「朝から?」と聞くと不二夫は大きく頷いた。

「俺の夢は、不二夫って文字のパンをもらうことじゃない。 彼女にハンバーグの上に『不二夫LOVE』とケチャップでかいてもらうことだ」

 傲然と言い切る不二夫に僕は目をぱちくりとさせた。

「……分かった、作るよ」

 不意にそれが不二夫の僕の気持ちへの答えな気がした。僕にそれをさせてくれる、という事。僕がハンバーグを作って不二夫LOVEを書いてもいいということだ。
 僕は涙ぐみながら、ひき肉を混ぜた。手で丁寧に形を作り上げながら、今度はそれをフライパンで焼く。爪楊枝で刺して、中の火加減を見る。
 不二夫は頬杖をつきながら、ダイニングテーブルについて、僕の作るハンバーグを待っていた。僕ができたてのそれを皿に乗せると、不二夫はまるで『ハンバーグ評論家』という職種にでもついているかのようにそれを眺めた。

「なんだこの文字は」

 僕はため息を吐いた。普段料理をしない男子高校生にいきなり作れというのは酷な話だ。

「不二夫LOVEじゃなくてフジオLOじゃねーか」
「……だってケチャップじゃ漢字かけないし、文字入らなかったんだもん」
「お前、なめてんのか!」

 不二夫の目が怒りで光る。僕は震えあがる。
 それでも不二夫はブツブツいいながら、僕のハンバーグに口をつける。

「お、中は柔らかくてなかなかイケる。 肉汁たっぷり」

 ふむふむと不二夫は評論を続ける。

「さすがふにゃちん。 柔らかさには定評があるんだな」

 いや、評論……か……?
 もしくは、ただの悪口か。
 僕は肩を落としながら、自分のハンバーグを食べた。

「あ、意外においしい」

 僕が自分で作ったハンバーグは意外や意外、なかなかおいしかった。「材料に愛情を入れただけあるなぁ」、なんて冗談のように呟くと、不二夫が突然静かになった。腕を組みながら、はぁっとため息を吐く。
 そうして不二夫が突然口を開く。

「まぁ、合格だ」

 何が合格だえらそうに、と僕が言おうとしたその瞬間。

「次はちゃんと不二夫LOVEって書けよ、バカタレ」

 不二夫は突然僕の後頭部に手をまわすと、僕の唇にキスをした。その瞬間、僕は合格の意味を理解した。
 なんだか僕の恋人は子供っぽいことにこだわるようだ。




おわり




副題〜冬真君のロストバージン編〜。ごめんね、ロマンチックもへったくれもなくて。
written by Chiri(8/1/2012)