猫にキス(6)



静歌のアパートはもぬけの殻だった。
隣の住人に聞くと、引っ越したと言われた。もう五日前の話だとも。

慎太郎は星太郎を抱いたまま、愕然とした。

慌てて静歌に電話をしようと、久しぶりに携帯の電話帳を開いた。
けれど、携帯は解約されていた。
慎太郎は自分で静歌を拒否しておきながら、今度は自分がそうなるとこんなにショックを受けるなんて思わなかった。

「くそっ!」

星太郎を抱く両手に力が入る。
それがあまりにも痛かったのか、星太郎はニャアアと不機嫌そうに鳴いて、慎太郎の腕からするりと抜けた。

そしてそのままどこかに走っていく。

「おい!星太郎!?」

逃げる猫を追いかける慎太郎。まるでどこかで聞くアニメの主題歌だった。
星太郎は慎太郎など毛ほども気にしない様子で颯爽と走っていく。

塀の上。
茂みの中。
人様の庭。

「ちょ、勘弁してくれ!」

庭いじりをしていた人に睨まれながら、慎太郎は叫んだ。
それでも走る星太郎を追うと、突然星太郎がぴたりと止まる。
見慣れた誰かの足元に星太郎がいる。

ニャァァンと言って、その人物に甘える。

「…星太郎?なんで?」

そいつが声を発す。
そして数歩遅れて現れた慎太郎を見て言葉をなくした。

「…静歌。」

目の前にいたのは、慎太郎が会いたいと願っていた静歌そのものだった。


「ど、どうしたの?いきなり?」
肩で息をする慎太郎を見て、静歌は震える声で問う。平静を装おうとしているのが一目瞭然だった。
慎太郎はグッと息を飲み込み、静歌を真正面からとらえた。
「ひどいよ、静歌!!」
びくっと静歌が体を揺らす。
「な、何が?」
「星太郎を捨てるなんてひどい!」
「え?」
「そんなに迷惑かよ!そんなにいらないのかよ!」
「え?え?」
「そうやって星太郎を捨てたように俺も捨てるんだろ!!」
静歌は困惑した表情で、慎太郎を見つめた。慎太郎自身、自分が何を口走っているかよく分かっていなかったが、真っ赤な顔でゼェゼェと息をする様子は何よりも必死さを物語っていた。
慎太郎は大きく息を吐いて、にじり出る汗を腕で拭った。
その様子を静歌はしばらく戸惑った様子で静観した。
しかし不意に小さく呟くように口を開いた。

「…捨てたんじゃないよ。戻したんだ。」

足元には星太郎が嬉しそうに静歌の足に巻きついて鳴いている。それを目線で追いながら、静歌はいつもの小さい声で続けた。
「あるべき場所に戻した。それだけだよ。」
静歌はそろりと顔を上げると、慎太郎を見て微笑んだ。その表情を見て慎太郎は息を呑んだ。今まで見たことの無い笑顔だった。諦めて生きていくのを許容した笑い方。
「静歌…。」
構わず、静歌は続けた。
「それに迷惑なのを慎太郎の方だったんでしょ?俺と友達になって後悔したんでしょ?だから、俺を拒否したんだよね?」
「それは・・・。」

拒否したのは、怖かったからだ。
友達として終わるのが。友達にしかなれないのが。
そして本当の気持ちを打ち明けたとき、静歌がどんな目で自分を見るのか、が。

「ごめんね、慎太郎。俺、正直何が慎太郎を怒らしたのかも分からないんだ。慎太郎はきっと俺が変なこと言うたび、ずっと我慢していてくれたんだよね?ずっと息苦しい思いをさせていてごめんね。」

静歌はいつもするように穏やかに笑った。

静歌はこうやって生きてきたのだろうか?
こうやって悲しみも口惜しさもその穏やかな笑顔の奥に抱き込んできたのだろうか?

その瞬間、慎太郎は自分のことだけ考えていた自分を深く悔やんだ。
いきなり無視して、着信拒否して、逃げて。それを静歌がどう思うかなんて思いつきもしていなかった。

慎太郎は首を横に強く振った。

「違う、違うんだ、静歌!」

思わず上ずった声が出て、慎太郎自身驚いた。そして静歌も目を瞠った。

「違うよ。静歌。俺はただ…。」

拳に込める力が強くなる。本当のことを言っていいかどうかを迷う。

静歌は嫌がるだろう。
こんな気持ち悪い想いを向けられて冗談じゃないと感じるだろう。

地面に目を向けると、星太郎がじっと慎太郎をみつめていた。黄色い瞳が何かと交信するようにピカピカ光っているように見えた。

初めて、星太郎の言葉を慎太郎は聞いた気がした。


さっさと言えば?


ぽんと背中を押された感じだった。



「・・・ただ、静歌のことが好きなんだ。」



え、と静歌が赤らんだ顔を上げた。
ぱちくりと目を開けていて、それがひどく可愛らしい。
慎太郎はそれを心の奥で感じながら、吹き出してくる気持ちをそのまま言葉にした。

「静歌が好きだ。綺麗で可愛くて、大好きだ。だから手繋ぎたいし、キスしたい。抱きしめたい。セックスしたい。一緒のお風呂入って、エロいこともしたいし、静歌の全身洗ってやりたい。静歌が欲しいもの全部してあげたい。俺、静歌がどうしようもなく好きだ。友達なんかじゃいられないくらい好きで、もうこれを打ち明けた以上、多分、俺、止められないから!」

そう言いながら、その言葉を有言実行するように静歌をガシッと抱きしめた。
瞬間、足元の星太郎が嫉妬するように「ニャアア!」と金切り声を上げた。

「え?ええ?ちょ、慎太郎??意味が分かんないんだけど。」
「静歌!俺とつきあってくれー!!」
「ええええ!?」
「お願いだ!俺を捨てないでくれー!!」
「ちょっと慎太郎?!」
「ニャアアアアアア!!」
「って星太郎もぉぉーー!!?」

突然ハイジャンプをして背中に飛びついてきた星太郎と慎太郎に完全に包囲され、静歌はどうしていいか分からなくなった。
(好きって・・・?好きってつまり恋人の好きってこと??)
慎太郎をそんな風に見たことなど無かった。そもそも男同士でそんな関係になるなんて考えても見なかった。
頭の中がぐるぐると回る。
(つまり、慎太郎が俺を拒否したのは友達以上になりたいっていう気持ちの裏返し??)
全然意味が分からない。
友達さえもいなければ、恋人なんて尚更いなかった静歌である。
いきなりそんな想いを向けられてもどうしていいかなんて分からない。
分からない。

けれど。

「・・・慎太郎。」

自分を抱きしめたまま、わーわー叫んでいる慎太郎の背中をポンポンと叩く。
慎太郎は突然口を閉じると、そろりと静歌の顔を見つめた。
ひどく頼りない表情をしていた。まるで捨てられた猫みたいな顔だった。
その表情に静歌は小さく微笑んだ。


寂しいの?じゃあ、そばにいてあげようか?


そう言ったのは、星太郎だっただろうか。慎太郎だっただろうか。
自分を救ってくれたのは誰だったのだろうか?
それでもあの時の自分は確かに救われて、とても温かい気持ちになれた。

今度はそばにいてあげるのは自分の番なのかもしれない。
そうやって一緒に生きていくのが人間なのかもしれない。

きっと好きになれる。
慎太郎ならきっと好きになれる。

そう思って、静歌はそっと目を閉じた。
そして慎太郎の頬に音もしないほどの小さいキスをした。


「・・・よろしくおねがいします。」


まるで猫のキスのようだった。
慎太郎は目を真ん丸くして、静歌を見つめると、一層強い力で静歌を抱きしめた。
「静歌…っ!静歌っ!!」
静歌は抱きしめられている最中、何故だか涙が出てきそうになった。

人に必要とされるってなんでこんなに嬉しいのかな・・・

好きになれるかな、という思いは確信に変わった。
(俺は、絶対慎太郎を好きになる・・・)
だってもう、抱きしめられているだけで天国にいけそうに嬉しいのだ。
これはもう好きなんじゃないか、とさえ思わせられる。

不意に背中をよじよじと上ってきた星太郎と目があった。
星太郎の瞳は夜空の星。
闇の中でぴかぴかと光っては、静歌を勇気付ける。

静歌は優しく笑って、星太郎に話しかけた。


「ニャアン。」


ありがとう、星太郎。





終わり



やっと終わった…。
written by Chiri(7/14/2007)