寝言は聞くな! 男の部屋に足を踏み入れると、まずその熱気に昴はウッと呻いた。 なんだか真冬に窓をしめきって授業を終えた教室みたいな空気だった。あったかくて、湿気を多く含み、汗ばんでいる。 その全てが奥にある男のベッドから発せられているように感じた。 昴はがらにも無く少しだけ慌てて、ベッドに駆け寄った。 男はハァハァと荒い息をしながら、そこに横たわっていた。 「…昴?」 男は荒い呼吸のまま、ほっそりと目を開けた。男の眼鏡は傍らにあるチェストの上に置いてあるので、男にはそれが誰だか分からないほどにぼやけて見えていた。それでもそれが愛しの恋人だと分かるのが愛と言うものだろう。 昴は手を男の額にあてた。とんでもなく熱かった。 「風邪ひいてんなら、なんで連絡しないんだよ!!」 昴が突然男のアパートを訪れなかったら、男はどうするつもりだったのだろうか。 そんなことを頭の隅で思いながら、それでも昴はただ目の前の男の身をこれ以上になく案じた。 「待ってろよ。今、風邪薬買ってくるから。」 男の部屋に薬の類が一切無いのを昴は知っていた。男は滅多に風邪を引かない。体調さえも崩さない。男の健康管理はいつでも完璧だからだ。 しかし部屋から出て行こうとする昴の腕を男はぎゅっと掴んだ。 昴は驚いて、男の方を見た。男は今までになく、憔悴しきった表情で昴を見ていた。これほどまでに弱った男を見たのは昴は初めてだった。 「どうかしたか?」 「…ここにいてくれ。」 男の握力は不思議なくらいに強かった。こいつは本当は元気なんじゃないか、と思えるほどに。けれどいつものうさんくさい男ならばそういう芝居もしそうだが、今の男にはそんな余裕は見えなかった。 昴は自分でも知らないような優しい声を出した。 「すぐ戻るから。な?」 「嫌だ、その間に俺は死んでしまうかもしれない。」 「大げさだよ。ただの風邪だ。」 「いや、そんなわけはない。自分の体の事だ、自分が一番分かるもんだ。」 お前はまたどこで聞いたセリフを口走っているんだ、と昴は心の中で突っ込んだが、本気すぎる男の目を見てさすがに何もいえなかった。 男は信じていた。自分が死に逝き、昴を置いていくと。 「一つ、最後に言わせてくれ。ああ、時間が足りない。言いたいことがたくさんあるのに。」 男は両手で顔を抑えて呻いた。その仕草に昴はなんだか胸が締め付けられた。まるで舞台の上の俳優を見ているようだった。どこか嘘くさく見えるのに、どうしようもなく本気にも見える。 男はそっと自分の手を顔から外すと、真っ直ぐに昴の顔を見た。目は熱のせいか、それとも他のことかもしれなかったが、とにかく潤んでいた。 「…俺が死んでも、昴は幸せになってくれ。俺以外の奴を好きになればいい。俺以外の奴と一緒に幸せになれ。俺のことは忘れてくれていい。本当にいいんだ。本当に本心だぞ。」 早口に男は言った。まるで制限時間がつけられているように焦った口調だった。 昴はその内容があんまりだったために、すぐ口から反論が出た。男が望んでいないと分かっていても反論するしかなかった。 「ふざけんな。俺はお前でいいんだ。お前しかいないんだ。」 「ああ、そんなこと言わないでくれ。ごめんな、昴。」 「あやまんな。ただの風邪だって言ってるだろう!」 「そんなわけあるか。ただの風邪がこんなに苦しいはずが無い。」 男はぴしゃりと言い切った。男が前に風邪を引いた時からおそらく5年以上経っていた。風邪がどんなものかも男は忘れていたのだろう。 今は昴が何を言っても無駄だった。 男はさめざめと目じりから涙を流した。 「本当にすまない。ごめん、昴。」 「お、お前はそれでいいのかよ。俺が他の奴と一緒でも。」 昴は病人のたわごとに律儀に反応している自分に自覚が無かった。ただ、男が言う言葉が昴の胸を細い糸で縛り付けて、圧迫しているようなそんな感覚だった。だから声が震えたし、何故か男の涙が昴の瞳にも伝染していた。 「泣くな、昴。哀しくなるから、やめてくれ。俺はお前が誰と一緒になっても幸せならそれでいい。ただ…。」 「ただ…?」 昴はぐすりと鼻を啜って、男を促す。 「ただ、……俺は自分がふがいない。お前を幸せにするのは俺の使命だと思っていたのに。情けなくて、仕方が無い。悔しい。悔しい…。」 男の顔中の筋肉が横に広がり、男は泣き崩れた。 それを見た昴は突然ぶわっと涙が出てきた。感情よりも先に涙がどぼどぼとあふれ出す。 「嫌だ、俺はお前がいい。お前じゃないとダメだ。」 「ああ、時間が無い…。ごめん、昴……。」 「やだやだ、ダメだ。お前じゃなくちゃ…。」 「昴……、………、いしてる…。」 「やだ!だめだ!!!」 「……………。」 「………。」 そうして、男は静かに息をひきとった。かのように見えた。 そして昴はどうしようもできなかった自分を本気で嘆き、崩れ落ちた。 ワァワァ泣き、男のなきがらのようなものにすがりつく。男の体に自分の体を密着させて、これ以上離れないといわんばかりにぎゅぅと抱きしめる。男の反応は何も無かった。ぴくりとも動かず、男の端正な顔を昴はにじんだ景色の向こうに見るしかなかった。 そうしていつのまにか時間が経っていった。 *** 男が起きたのは星と月が既に昇った時間で、自分の体にぴたりとくっつけて眠っている昴を見て怪訝そうにした。男は自分の体をゆっくりと起こすと、自分にもたれ掛かっている昴を抱き起こす。そのとき男は自分の体のだるさに小さく驚いた。 男は昴に呼びかけた。 「…おい、昴?」 それだけでは起きない昴の顔を覗く。目が真っ赤に腫れている。まるで限界まで泣いていたようだ。だが、昴が泣くなんて滅多にない。どうせ、徹夜でゲームでもしていたからなんだろう。 男はコホンッとせきをした。服は汗でびっしょりで、すぐにでも脱ぎたいという欲求に駆られた。どうやら、何年ぶりかの風邪をひいたようだと男は冷静に自分の症状を判断した。 「ん…っ。」 昴が身じろぐ。 昴は瞼を半分開けると自分を抱いている腕に目をやり、すぐにそれを伝って男の顔へと目線をうつした。男の顔を見た瞬間、昴の顔に薔薇色の色彩が浮かぶ。 「お、お、お前、大丈夫なのか!!?」 嬉しいような驚いたようななんともいえない感情で昴は支配されていた。昴の気持ちはさっきのまんまだった。変に高ぶっていて、熱に浮かされている。 「いや、風邪みたいだ。」 落ち着いた声音で男はしゃべる。 「…だから風邪だって言ってたじゃん!!さっきも!!」 昴はぱっちりした目をくりくりと動かして、男に詰め寄った。男は眉を顰めてから、昴をそっと押し返した。 「お前はひどい恋人だな。風邪だって分かってるなら、すぐに薬を買ってきてくれ。」 昴は目を見開いた。口がぽっかり開いてふさがらない。 どうやら男はさっきの一連の会話を全て忘れているらしい。 昴の中にどうしようもない居心地の悪さとどこに向けていいか分からない腹立たしさがムクムクと生まれた。けれど、昴はグッと堪えた。 あの時、男が言った言葉は今の言葉よりもずっと真実味が感じられた。…少なくともあの時は昴にはそう思えたのだ。 昴は男の目を見た。 男は不思議そうに昴を見返した。 「なぁ、お前さ…。俺がさ、お前じゃない奴と幸せになってもいいって思ってんの?」 昴はじっと男の目を見たまま、聞いた。 男は目を二、三度瞬いた。 昴が何故そんなことを言っているか全く分からないという目だった。 「なぁ、どうなんだよ?」 昴は首をクイッと伸ばし、男の答えを促した。 男はまるで愚問だな、とでも言いそうな雰囲気を出していた。 「思っているわけないだろう。お前を幸せにするのは俺の使命だ。」 歯の浮くようなセリフだ。いつもの昴ならなんて恥ずかしい奴だ、と思っていたところだが、今日の昴はただにっこりと微笑んだ。 まるで正解だと男を褒め称えているような笑みだった。 その笑みに男はくらりと来た。そして風邪とはなんておそろしいものだと違うところに帰結させた。 昴はすっと立ち上がった。男はそれを見つめる。 「よし。じゃ、俺薬買ってくるから。」 「ああ、頼む。」 昴が外へ出ようとする。その時に。 「あ、一つだけ。」 昴は男の方に顔を向けた。 顔は凶悪なほどに歪んでいた。男は思わず恐怖に慄いた。 「寝言は寝て言え、このバカ野郎っっ!!!!」 バァンとアパートの扉が閉まる音がした。しばらくパラパラと何かのカケラが天井から落ちてくる。 男は頭の上にハテナをたくさん出しながら昴が何故あそこまで怒っていたか考えたが、当分の間は分かるはずも無かった。 終わり 一応眼鏡の続き。けれどなんかキャラ違うかも。風邪ひいてるからです、きっと。 男のうさんくさいセリフ萌え。(←微妙) written by Chiri(5/12/2007) |