サラダに金平糖



 暗闇の中に一線だけ光が見える。
 その向こう側は恐ろしい世界のように見えた。
 そこに母と父がいた。史人(ふみと)だけがクローゼットの戸を一枚隔ててその世界から隠れている。けれど、クローゼットの中だって暗闇の世界だ。そして光がある世界は鬼が棲む恐ろしいところだ。
 自分の居場所に安心できるところは無いのかなと思うと、どうしようもないやるせなさが感じられた。
 あがいてみるか。それとも諦めるか。
 自分にはその二つの選択肢しかないとその時史人は悟った。
 手に汗を握りながらハッと気付いた。いつも癖のようにして持っていた金平糖の袋が無い。クローゼットに逃げた時に落としてしまったのだろうか。
 キラキラした金平糖はクローゼットのすぐ外に落ちていた。
 あんなにコロコロしてキラキラしておいしくて可愛い金平糖。
 史人は金平糖が大好きだった。けれど、そこにいた母も父も誰もその金平糖には気付いてなんてくれなかった。



***



 パジャマのままの史人に対して目の前の男は少し着崩した学ラン姿だった。
「なぁ、史人、学校行こうぜ」
 こうやって毎朝ここにくるのは既に圭三(けいぞう)の日課になっている。もしくは習慣。それとも義務かもしれない。圭三は小さい頃からずっと三軒隣に住んでいた幼馴染だ。親のつながりは無いが、幼稚園、小学校、中学校、そして高校まで一緒になったからにはお互いをそれなりに理解しあっている存在だ。圭三は同い年だというのに、史人よりはよっぽどモラルと正義感に満ち溢れている。史人の不登校が許せないのだろう。
 だから毎朝普段の圭三の登校時間よりも少し前に史人のマンションのベルを鳴らす。
 どうせこのマンションには史人しかいないのだ。史人はパジャマなのも気にせずとりあえず圭三を中には入れてやる。うざったいこの幼馴染だが、この幼馴染と話もしなくなると自分は話す人間がいなくなるという事はなんとなく分かっていた。
「嫌だよ、昨日行ったばかりじゃん」
「あのなぁ、学校って毎日行くものなんだぜ?」
 ため息と共に言われると、史人はそりゃそうだけど、と心の中でだけ呟いた。
 学校に何の為に行くのか分からない。
 それが本音だった。
 中学の時、史人は学校へ勉強をする為に通っていた。史人にとって勉強は苦痛でしかなかったが、勉強する時間は膨大だった為幾分かは力になった。だから、それこそ圭三よりも良い成績で今の高校に入れたのだ。けれどそれは全て良い成績に執着する母親の為だけだった。
 今年になって、今まで何で離婚しなかったのか分からなかったような両親がやっと結婚生活に終止符を打った。母親はいつも言っていたように、父親を捨てて、史人も父親に押し付けて去っていった。そして当然荷物を押し付けられた父親は母親を憎み、史人を煩わしく思った。
 そんな中、今まで史人を縛り込んでいたものがなくなったのに、学校へ行く?
 何のために?
 史人には到底分からなかった。

 史人は冷蔵庫を開けると、適当にレタスときゅうりをあわせてサラダを作った。そしてそこに史人にとって見慣れた色とりどりのトッピング。
 圭三は史人の手元を見ると、顔に分かりそうなくらいゲッ、とした。
「うわ。お前、またそれやってんの?」
「だって色どり綺麗じゃない?」
「綺麗ってよりも味覚を疑うよ……」
 赤、青、黄色、白のコロコロした可愛らしい金平糖。それが緑一色のサラダを優しい色合いで飾る。
「好きなんだからいいじゃない」
 小さい頃からずっと大好きな金平糖。ずっと食べ続けて今や食べないと逆に落ち着かなくなるくらいにまでなってしまった。
 それにそのサラダのおかしさについて語る者は今のところ圭三しかいない。
 史人が勝手に作っているものに興味を持つ人間なんてこの家にはいないのだから。
「あーもう遅刻する!」
 圭三が時計を見て、イラッとした声をあげる。史人はそれを横目で見ながら、サラダに箸をのばした。
「もう学校行ったら?今日は俺、何言われても学校行く気分にならないと思うよ?」
「くっそ、有閑マダムみたいなこと言いやがって!」
 圭三は乱暴に椅子を引くと、床に置いてあったかばんを持ち上げて立ち上がった。
「明日また来るからな!」
「うん、いってらっしゃい」
 左手で手を振りながら、史人は金平糖を口に入れた。
 がりっと奥歯で噛む。やっぱり、甘くて、おいしい。
 なのになんで皆、分かってくれないのだろう?

   圭三がいなくなると部屋はまた静寂に包まれた。
 いつもみたいに金平糖が奥歯の間で砕ける音しか聞こえなくなった。



***



 次の日もやはり圭三は来た。
「史人、おはよう!」
 玄関のドアを開けると、まだカーテンも閉めたままの部屋に日差しが入った。どうやら今日の天気は晴れらしい。
 圭三はいつものようにツカツカと上がりこむと、部屋のカーテンを全部開けた。
 未だパジャマ姿の史人に朝が舞い込む。
「決めたぞ、俺は」
 圭三は振り向くとにやりと笑った。
 そして、勝手に史人の制服を出してきて、史人に突きつけた。
「今日は学校行くんだからな、お前」
「えーだって、一昨日行ったばかりじゃん……」
「一日休んだんだからいいだろ!このままじゃお前本当に出席日数やばいんだからな!」
 えー……、と面倒くさそうにする史人のパジャマの上を圭三が突然ひん剥いた。
「ちょ、何するの」
「なまっちろい肌しやがって」
 史人の腹に圭三の手が触れる。
 圭三の手は熱かった。活動的で健康的な男の掌だ。
 史人は小さく息を呑んだ。
「これは青春を知らない体だ!」
「はぁ?」
 思わず腹から声が出た。
 けれど圭三は気にした様子もなく続ける。
「部活だ!」
「はい?」
「お前も部活に入れば、学校で青春が味わえるぞ!」
「え、やだ。もう何、この人、めんどくさい……」
 心の中の声が漏れていたようだが、圭三はやはり気にした様子は無い。
「今日は学校行ったら部活選びからはじめるぞ!」
「え――……っ!」
 その日、史人は圭三は無理矢理着替えさせられ、ついには学校にひきずられていってしまった。




 廊下にボリボリと口の中で砂糖がはじける音が続く。
 休み時間に圭三はわざわざ史人のクラスまで話をしにきた。廊下側の窓越しに圭三と史人が二人たってしゃべる。
「っつーか、お前何がやりたいの?」
「何って……別に何もやりたくないよ……」
 金平糖を食べながら、圭三に返事を返していると、圭三がムッと口を尖らせた。
「お前ちょっとくらい考えろよ!お前の部活なんだから!っつーかずっと食べてんなよ、ばか」
「そっちが勝手に部活入るとか決めてるからじゃん!」
 廊下にいる生徒達が振り向く。
 ひそひそと、女子高生たちの耳障りな声が聞こえた。

 圭三君の横の人、誰あれ?
 あーあの、3組のよく休んでる人……

 ムカッときて、史人は女子生徒を睨んだ。やだー怖い、と当たり前のような返しが来て、余計に心がささくれ立つ。
 圭三は「あーもういちいち怒るなよ」と史人の目を手で目隠しした。

 その瞬間、目の前が真っ暗闇に支配された。

「やめろって!」
 思いのほか、大きい声が出て史人は自分で焦った。周りにいた生徒達は相変わらずひそひそと不愉快な音を立てていた。
 圭三は驚いて手を下げたが、史人は居心地が悪いままだった。
「ごめん、俺、暗いの苦手だから」
 苦手といっても自分でも忘れている程度のことだ。けれどふとした瞬間に暗いと感じると身震いしてしまう。
「あ、そうだっけ」
 圭三はごめん、と言って史人の髪の毛を撫でた。
 その瞬間に史人はホッと安堵した。大声をあげてしまったのに対して怒ってないかと聞きたくなったのは、圭三が史人の唯一の友達で、かかわりのある人間だからだろうか。
「だから、放課後、一緒に部活見に行こうぜ!」
「……うん」
 少し弱気になっていたので、つい「うん」と答えてしまった。
 ハッと気付いてからではもう遅い。
 圭三はニヤニヤ笑いながら、史人の頭をポンポンと撫でた。
 結局圭三ほど、史人の扱いに慣れた人間はいないのだ。



 道場にはすさまじい音が響いていた。
 ところどころで、竹刀で打ち合う生徒達が俊敏に動いていた。
「剣道部とかどうだ?」
 おーと生徒達の打ち合いにいちいち驚く圭三の横で史人は仏頂面のまま立っていた。手にはやっぱり金平糖。汗を流して動く生徒達を横目にボリボリとそれを貪っていた。
「……えー、やだ」
「何でだよ」
「胴着とか汗臭そうだし」
「部活に汗は必須だぜ!」
「冬も裸足だし」
「動き回ってりゃ気にならなくなるんじゃねーの?」
「……動きたくない」
 いちいち真っ当な答えを返してくる圭三にげんなりする。
 圭三は圭三でこうもやる気を出さない史人を見て、はぁっとため息を吐いた。
「ってお前金平糖食べるのやめろよ。部員の心証悪くするだろ!」
 史人は口を尖らした。相変わらず食べるのはやめない。
「おいしいんだもん。なんで皆、分かってくれないのかな」
 子供のように拗ねた物言いをすると圭三はやはり大きくため息を吐いた。
「そんなん、おいしいのなんか皆、知ってるんだよ。とにかく食うのやめろっつの」
「でも皆大きくなるとこれ、食べなくなるじゃん」
 史人にとっての金平糖は生活必需品だ。口元が寂しい時にそれが無いとひどくどぎまぎしてしまう。もはや病気のようなものだ。それなのに、他の人にとって金平糖がそこまで大切なものではないということがよく理解できなかった。
 こんなにおいしくて可愛いのになんでみんな食べないのだろうか。
 それが不思議でならない。
 圭三はそんな史人の様子を見て、金平糖の袋に手を伸ばしてきた。
「ばぁか、金平糖なんて皆好きだっつの」
 一掴みするとそれを口に入れる。
「久しぶりに食べると美味いな、これ」
「いつも食べてても美味しいよ」
 二人でボリボリとそれを食べていると、突然怒号を響いた。
「お前ら、神聖なる道場で二人で何食ってるんだ!出てけ!」
 剣道部顧問の声だ。
「うぅわ、すんませんでした!」
 圭三は慌てて史人の手を取り、道場の外にそそくさと出て行った。
 外に出ると、圭三は木にもたれかかる。
「やっべ、俺さっき手が勝手に動いてたよ」
 はぁっと落ち込む圭三を見て、史人はにやりと笑った。
「昔に戻ったみたいだね」
 史人がフフッと笑いながら、圭三を見ると、圭三は意味が分からないという風に史人を見た。
「覚えてないの?」
 史人が笑うと、圭三は眉を顰めた。
 幼稚園の時はいつも史人が食べてる金平糖を圭三が隣から手を出して、取ってしまうことが多かった。ピンクの金平糖をとりあったことだってあった。その度に史人は大泣きして、結局圭三が最後に謝る。ピンクの奴はお前が食べていいよ、と幼い圭三が幼い目から見ても分かるような我慢した表情で言うのだ。
「そんなことあったっけ?」
 圭三は忘れてしまっていたみたいだけど。
「あったんだよ」
 史人は久しぶりににこやかに笑った。
 なんだか圭三も変わってない気がした。あの頃、争うほど好きなものが一緒だった時のように、心の底の部分で分かり合えている気がした。



 その後、柔道部やサッカー部、テニス部、野球部とまわったが、やはり史人が入れそうな部活なんて無かった。大体が史人の擦れた態度に顧問か部員が怒ってしまい、ダメになるケースばかりだった。
「お前、まじで我儘だな!」
 グチグチと文句を言う圭三に対しても史人はどこ吹く風だ。
「だから部活なんて入らないって」
「いーや、こうなったら意地でもお前には部活に入ってもらう!最後の手段だ。俺と同じバスケ部、入れてやる!」
「えー……」
「バスケ部に入れて、俺が直接ビシバシしごいてやらぁ!」
 目の中に炎を宿した圭三に何を言っても無駄だ。
 史人は仕方なくドシドシと歩く圭三の後ろをついていったが、ふと視線に気付いた。
 体育館の陰から史人のことをじっと見つめるジャージの女生徒。
 廊下や教室で史人を肴にひそひそ話をする女生徒と同じような視線。もしくはそれよりも度が増したような凄み方だった。
「圭三、あの女って……」
「あ、マネージャー!」
 女生徒に気付いた圭三は手を振りながら彼女に駆け寄った。
「圭三君、もう部活始まってるわよ!今日監督いなかったからいいけど、普段だったらどやされるわよ!」
「わ――まじで!ごめん、所用で遅くなっちゃった」
 マネージャーに手を合わせて謝ると、マネージャーはもうっ!と手を腰に当てた。
「それで、そっちは?」
「ああ、こいつ。俺の幼馴染の史人。バスケ部に入れようと思ってさ」
「ふぅん」
 その瞬間、マネージャーの嫌味な視線が増す。史人はげっそりとしながら、その視線にグッとこらえた。
 圭三は体育館の中を覗き、他の部員を見て「やっべ!怒られる」と声を上げた。くるりと振り向くと、史人に向けて言う。
「史人、じゃ、俺、部活いくから!」
「うん、じゃ、俺、もう帰――」
「らせないからな!マネージャー、悪いんだけど、こいつ適当に見学させておいてやってくれよ」
 え――、やだ。
 って顔をしたのは史人とマネージャーのどちらもだ。
 けれど圭三はそんな二人に気付かず、「じゃ、よろしく!」と体育館から目を離さずに、走って行ってしまった。
 取り残された二人にしばらく居心地の悪い間が訪れた後、マネージャーがやっと口を開いた。
「何、あんた、バスケ部に入りたいの?」
 最初に交わした言葉がそれだから、史人も流石にムッと来た。
「別に、入りたくないよ、こんなところ」
「あっそ、じゃ勝手にして。私、暇じゃないの」
 そう言うと、マネージャーはそのまま史人を置いてどこかに行ってしまった。史人はマネージャーの背に向けて、あけすけにあっかんべぇをした。
「何あの態度。圭三の前だと全然違うじゃねーかよ」
 イライラしつつも、勝手に家に帰ってしまわなかったのは圭三がきっと後でクドクド怒ると思ったからだ。
「適当に時間潰して、圭三を待ってるか……」
 そう決めると体育館のあたりを散策しだした。
 体育館の格子窓から中を覗くと、圭三の走る姿が見えた。掛け声も聞こえる。
 圭三は史人が学校に行く日は一緒に登校するが、帰りはいつも一緒ではない。圭三には部活があるからだ。
「圭三っていつもここで部活してるんだ……」
 なんとなくしみじみにそんなことを思うと、圭三にとっての学校が自分にとっての学校とは全然違う事が少しだけ分かった。
 他の生徒が汗をたらして運動をするのを見ても何も思わなかったが、圭三がそうやって汗いっぱいにして走る姿は、なるほど青春のイメージが思い浮かぶ。
 青春している圭三が見れたのはなんだか得な気分だ。
「学校もそんなに悪くは、無いのかな……」
 呟くようにしていった言葉を圭三が聞けばどれだけ嬉しかっただろう。
 体育館の裏にバスケットボールが落ちているの見て、史人は静かにそれを手にして、笑みを浮かべた。
 部活なんてものはやっぱり面倒だし入りたくは無いけれど、見ている分には楽しいかもしれないなと心の中で思った。

 しばらくして、することも無くなった史人はバスケ部の部室で勝手に待たせてもらうことにした。誰かが置いていった少年雑誌を読みながら、金平糖を貪る。これはこれでなかなか有意義だな、と思いながら鼻歌を交えて部室のベンチに横たわっていた。
 しかし足音が近づくのが聞こえて、史人は座り込んでいた体を慌てて立たせた。
「ちょっと話したいことがあるからこっち来て!」
 扉のすぐ外で聞こえた声はマネージャーのものだった。
 うわっと史人は口を開けた。
 あのマネージャーとまた顔をあわせたくなかった。それに、自分は部室にいるべき存在ではないということもある。何故だか知らないが、逃げなきゃいけないという強迫観念に駆られて史人はつい異常な行動をとってしまった。
 ロッカーの中に隠れたのだ。
 部室にマネージャーと誰かの二人の足音が響く。
「何、話って?」
 史人はヒュッと息を呑んだ。
 それは圭三の声だった。
「誰もいないわよね?」
 ドキッと鼓動が鳴った。
 いやここにいますよ。と心の中で呟く。
 ロッカーの中からは横に細長い穴が三つ開いていて、そこから二人の胴部分だけ見えた。
 三つの光の筋が史人の顔に落ちる。
 それ以外はこのロッカーの中は暗闇だ。

 あ……やばっ……

 なんでこんなところ入っちゃったんだろう、と思った瞬間脂汗がブワッと出てきた。
 ガタガタと体が小刻みに戦慄く。
 脳裏に昔の記憶が浮かんできた。似たようなシチュエーション。今と一緒で、史人はクローゼットの中。外には父親と母親が言い争っている。

「で、何なんだよ?マネージャー」
 圭三ののんきな声が聞こえた。それに対してマネージャーは苛苛口調だ。
「何って、こっちが聞きたいわよ」
「ん?」
「あの史人って奴、本当にバスケ部に入れる気?」
「え、ダメか?」
 自分の名前が出てきて脂汗がひどくなった。
 自分がいないと思ってしゃべる二人。でもそれを本当は聞いている自分。
 シチュエーションが酷似していた。
 あの時の自分と今の自分が重なりだす。
「……ダメっていうか。私は嫌よ、あんな我侭そうな奴」
 マネージャーの声音が一歩だけ引いた感じがした。
「そういうなって。アイツ俺の幼馴染でさ――」
「知ってるわよ!」
 史人をかばう圭三の言葉にマネージャーは言葉をかぶせた。マネージャーの声が荒くなる。
「だって!アイツって、3組で不登校の奴でしょ。しかも聞いてれば、単なる我侭なズル休みみたいなもんだっていうじゃない。そんな勝手な人間の世話を圭三君が見る必要あるの?」
「あのなぁ」
「それに!今回だってわざわざ部活一緒に選んであげるなんて過保護すぎよ。圭三君はもっと自分の時間は自分のことに使うべきだわ……」
 胸がドッドッとなる。
 ロッカーの中だからだろうか。いつもよりずっとずっと心臓の音がうるさい。
 自分がこんな風に言われているのはどこかで気づいていた。けれど、ここまではっきりと言葉にされると自分が今までどんなに圭三に迷惑をかけてきたかが分かる。
 マネージャーは小さく呼吸を置いた。
「……前にも言ったじゃない……」
 マネージャーの声は小さくて可愛らしかった。
 そうか、マネージャーは圭三が。
「私、圭三君が好きなのよ。だから圭三君があんな奴に振り回されているのを見ているの嫌なのよ……」
 圭三が黙り込んだ。
 二人の顔までは見えないが、きっと今マネージャーはいつもより数段と頼りない表情で圭三を見つめているのだろう。
「あいつが男だってことは分かっているの。でもそれでも嫌なの。ねぇ、お願いだから、私とつきあって」
 部室に沈黙が落ちる。
 外から部員たちの掛け声が聞こえる。その合間にマネージャーのすすり泣く声が聞こえた。
 けれど次第に聞こえなくなる。ロッカーの中の暗闇が史人の音を奪っていく。
 暗い。怖い。
 あの時みたいに。
 自分は捨てられるのかもしれない。
 圭三は自分なんかよりマネージャーを選ぶかもしれない。

 どうしよう。
 圭三に彼女ができたらどうしよう。
 朝もう迎えに来てくれないかもしれない。
 だって俺は疫病神だもの。
 母さんと父さんが言っていたもの。
 だから二人とも俺がいやだったんだもの。

『だから私は産みたくなかったのよ』

 母がそう言った光景が今でも脳裏に焼きついている。
『アンタとはどうせ上手くいかなくなるって分かってたもの。なのに、あの子を産んじゃったからこんな面倒なことに……』
 クローゼットの向こう側で母がわざとらしくため息をつく。その横で父親が苛苛とテーブルに手をついていた。足は貧乏揺すりをしていた。
『俺のせいにするなよ。産んだのはお前だろ』
『アンタが変な正義感出して、堕ろすなって言うからでしょ!』
『悪かったな。あの時は可愛がれると思ったんだよ』
 父親は心底わずらわしそうな様子で言ってのけた。
『でも所詮お前みたいな阿婆擦れの子供じゃな』
 闇の中にいる史人に落ちていたかすかな光の稜線。それは光でも何でも無い。闇の中で見えたそれはもっと恐ろしい地獄の一角だ。
 結局、どこにも史人の居場所なんて無いのだ。

 史人は母親の履くスリッパが地面に光るものを踏んづけるのを虚ろな瞳で見つめていた。

 パリン

 父親にも母親にも聞こえなかっただろう。
 けれど史人にはしっかりと聞こえていた。
 あの小さくて可愛らしかった金平糖が無残に砕け散る音が。


 スッと目の前が暗くなる中で声が聞こえた。

「ごめんな。俺、なんだかんだであいつの世話するの好きなんだ」

 圭三の揺ぎ無い声だった。

え。
呼吸がとまった。

「もう、なんなのそれ!」
 マネージャーは涙声のまま、声をあげた。圭三は小さい声でもう一度ごめん、と呟いた。
 マネージャーはやりきれない想いで地面を踏みつけた。
 地団駄を踏むマネージャーに圭三はあ、っと叫んだ。
「その辺!気をつけて」
「はぁ!?」
 マネージャーの声はもはや圭三に対して敵意があるようにも思えた。
「そこ、踏んづけないで。金平糖」
 ドキッとした。
 史人は手を確かめると、金平糖の袋が無い。ロッカーの中に逃げ込む時に、外に落としていたのだろう。
「なんでこんなところにあるのよ、そんなもの!」
 マネージャーは圭三のそんな態度に怒りで体を震わせながら、部室を出て行った。バシンと部室全体に響くような音で扉を閉めると、圭三がやっと長い息をついた。

「さて、と」
 圭三の足音が近づく。
 どこに、どこに?
「おーい、お前何してるんだ?」
 目の前の扉が開いた。
 光の世界が自分と溶け込む。今度は、今度こそはまごうことの無い光で満ち溢れた世界。
 その瞬間にぼろっと涙が出てきた。圭三が息を呑んだ。
 この涙が何なのかは分からなかった。
 けれどまるであの時泣けなかった涙の分が今やっと出てきているような気もした。
 小さい頃の自分が助け出されたのかもしれない。

「……なんで分かったの?」
 自分で発した言葉にビックリした。まるで子供のように覚束ない。
 圭三は目をパチパチさせて、部室の床に目をやった。
「なんでって……、こんだけ金平糖落ちてれば分かるよ」
「だってあの人たちは分からなかったから」

 史人の言葉に圭三が目を細めた。
 なぁ、圭三。僕はあの時見捨てられたんだ。
 クローゼットの中にいると気付かないで俺のことを話し合う両親に。
 ちょっと見れば分かったはずなんだよ。
 俺は、クローゼットに逃げた時に慌てて金平糖を何個もこぼした。
 床に落ちていた金平糖を辿れば俺の存在なんてすぐに気付いてもらえるはずだった。
 けれど両親は金平糖なんて気付かなかった。
 気づかないまま、踏んづけた。

 本当はただ気付いてほしかっただけなんだ。
 今の高校にたくさん勉強して入ったのは、母さんに自分を見て欲しかったから。
 高校に入って不登校を始めたのは父さんに自分を見て欲しかったから。
 でも、やっぱり父さんも母さんも俺が頑張ったって頑張んなくたってどうでもよかった。
 そうしたら、ビックリするくらい自分でも全てがどうでもよくなったんだ。
 学校なんて行ったって行かなくたって一緒なんだから。
 どうせ誰も見てくれないし、気づいてくれないんだから。

 史人はボトボト落ちてくる涙を手の甲でふき取った。
 そして伺うように圭三の顔を見上げた。
「圭三、僕は我儘なんだ、きっと」
 圭三は顔を顰めた。史人はそれが怖くて、目線を自分の膝にやった。
 膝を抱えた上に頭を置く。 
「……それにきっと重たい。めんどくさい。最悪だ」
きっとマネージャーが言っていたことは正しい。自分が圭三の自由な時間を奪っている。自分の世話なんて見ないほうが、圭三はずっとずっと楽になる。
けれど。
やっぱり自分は我侭なのだ。

「でも僕は圭三がいれば頑張れるような気がしないこともないかもしんないかもぉ……」
 グスンと鼻をすすると、圭三の忍び笑いをする声が聞こえた。
「お前、どんだけ自信ないんだよ」
 手が差し伸べられた。
 ずっとロッカーの中にいたせいで体が固まってしまって動けない。それを無理やり引っ張られると、体勢が崩れた。
 慌てて史人は圭三に胸に抱きついた。圭三はうぉっと、と小さく漏らしながら史人を支える。
 史人が圭三の胸元でグスグス泣きながら、圭三の首に捕まっていると圭三がぽりぽりと首を描いた。
「……あのなぁ」
 吐き出す息が首にかかる。
 なんだか甘い匂い。
 あ、そうか。圭三の口の中はきっと金平糖。

「お前の言う一個一個の我儘なんてな、金平糖みたいにちっちゃくて可愛い程度のもんだよ」

 頭に手を当てられると、ポンポンと撫でられていた。
 その触れ方が何よりも優しくて、史人はそっか、そうなんだ、と心の中で呟いた。
 自分は圭三が好きなのだ。
 だから誰よりも一緒にいて欲しいんだ。

 圭三の腕の中はなんだか心地よくて。
 自分のためだけに誂えられたゆりかごのようだった。
 ゆらゆら揺られて史人はやっと泣き止んだ。

 史人は笑って圭三に言った。
「圭三、明日は一緒にサラダ食べようよ」
「あの金平糖サラダ?」
 圭三がゲッと顔を顰めた。史人は笑顔のまま首を振った。
「圭三が嫌なら金平糖は入れないから。圭三がいるなら、金平糖の無いサラダでも我慢するよ、俺」
 にこにこと笑う史人に圭三も勇ましく笑い返した。

 ばぁか。
 金平糖サラダでも何でも一緒に食ってやるよ。

 そう言った。
 そう言ったくせに。
 次の日の朝、それを食べた圭三は盛大に史人を罵った。





おわり




圭三の方はきっと世話を焼いてあげたい≒放っておけない≒愛しいって気持ち。
written by Chiri(8/12/2008)