hide-and-seek



ステンレスの扉のドアノブに手をかけた。
落書きのように黒のペンキで書かれたアルファベット。
hide-and-seek
かくれんぼとはよく言ったものだ。
ここほど隠れ家という名前が似合う場所は無いと思う。


「聞いてよ!!ママ!」
「…マスターと呼びな。」

俺が扉を勢い良く開けて店に入ると、ママは俺をひとにらみしてそう言った。
切れ長で眼光の鋭い瞳。バシッと決められたマスカラ。スッと美しいラインで伸びた鼻筋。そして真っ赤な唇。
背は高めで、色っぽくて少しおっかない。凶悪なほどの美しさを纏った女性。
それがカナという名前のこの店のママだ。
俺はいつものカウンター席にすばやく座った。ママと一番しゃべられるポジションだ。
「どうした?」
「マサカズの野郎!!アイツまた浮気したんだ!!」
俺はこれ見よがしに唇をとんがらせた。ママはふぅっと口から重い空気を吐き出した。
「…お前、まだそいつとつきあってたのか。」
ママにひと睨みされて俺は竦んだ。ママの怒る顔はひどく怖い。そして艶やかだ。
「…うん。」
叱られた子供みたいに俺はうな垂れた。
「で?そのマサカズがなんだって?」
ママは片眉だけ器用にあげた。俺はしょんぼりしたまま、口を開いた。
「秘書課一美人な女と浮気したんだ…。しかも問い詰めたら「あんな極上の女の誘いを断ったら男が廃る」だって…。」
「ろくでなしだな。」
素気無くママは言い放った。
俺は小さくうん、そうだね、と言った。
ママは基本男言葉を使う。ママと呼ばれるのも嫌う。ママ曰くマスターと呼べ、が口癖だ。多分自分が女だったことで見くびられたりとかしたからなんだろうけど。けど、ママはすごい美人だ。だから俺はやっぱりママと呼ぶ。けれど俺はママと呼ぶたび、ママは俺をひどく睨みつける。でもその顔がこわくておっかなくてちびりそうで、けどちょっとかっこいいから俺は何度でも彼女をママと呼ぶ。
ふと俺の横の席を誰かが陣取った。くるくると巻いた髪がふんわりと踊る。
ジェシカだ。
「フフ、智君今日も来たの?」
ジェシカは花が綻ぶように笑った。
僕はジェシカに顔を向けて、力無い笑顔を返した。
ジェシカは可愛い。ママは綺麗だけど、ジェシカはすごく可愛い。
そして驚くことにジェシカは本当は男なのだ。いわゆるオカマさんという奴だ。最初にジェシカに教えてもらえなければきっと俺は気づくことも無かっただろう。それぐらいにジェシカは女として既に完成されていた。
「今日の服、可愛いね。」
ジェシカの花柄のワンピースを誉めると、ジェシカは「まぁ!」と言って、両手を頬にあてた。
「私、智君のそういうところ大好き!」
俺が曖昧に笑うと、ジェシカは俺の腕を取った。そしてグイッと体を引き寄せる。
「智君もいいかげんそのマサカズって奴と別れて、私とつきあおうよ?」
ささやくように言われて、俺は少し照れた。
女の子、いや元は男だけど、にそう言われるのは嫌いじゃない。そもそも女の子は可愛いし、見ていてすごく和む。けど根本的に俺はダメなのだ。
「でも、俺、ホモだから。」
抱いてもらわなきゃ、俺、ダメなんだ。
と、俺が情けなく笑うと、ジェシカはあら、と口を窄めた。
「別に、私だって智君のこと抱いてあげられるのに!」
そう言ってがばぁっと抱きつかれた。俺はわぁと声をあげてのけぞる。
「私、下は工事してないのよ!だからタチもできるから大丈夫よ!智君のことアンアン鳴かしちゃう!!」
興奮した様子のジェシカに、そんなものなのか、と俺は目をまんまるくした。
「おい、兼三。やめな。」
ママの低い声にジェシカが俺からパッと離れる。ぷぅっと口を膨らませて怒る。
「本名で呼ばないでったら!」
ジェシカの本名は兼三という。ママがそんなことを知っているのも、二人は昔なじみだからだ。一緒の高校に通っていたらしい。
俺はママの過去を知るジェシカが心底羨ましい。
きっと昔から大人びた女生徒だったに違いない。
ジェシカも俺がそのことを聞くととても楽しそうに話してくれる。
「その頃からね、カナちゃんってばすっごーいもててたのよ!」
ジェシカは含みのある笑い方をした。ママは不機嫌そうに目頭の筋肉をぴくりと動かした。
「でも分かるよ。ママとかいろんな男を泣かせてそうだよね。」
俺がそう言うと、ジェシカは心底楽しそうに笑った。
「そうよぅ!カナちゃんってばあの頃から本当にたくさんの男を鳴かしてたわよね〜…。」
「だまれ、兼三。」
いたずらっ子のように目を細めて笑みを浮かべるジェシカに俺は首をかしげた。時々、ジェシカはママをそういう視線で見つめる。そうやって俺にはちょっとわからないような会話を目だけでしているのだ。
ママはジェシカに絶対零度の一瞥を食らわせると、話題を最初に戻した。
最初の、マサカズの浮気話に。
「智、今度マサカズを連れてきな。」
「え?」
俺はママを見上げると、ママが妖艶に笑っていた。
「二度と浮気できないようにそいつのモノ使い物にならないようにしてやるよ。」
まるでどこぞに出てくる美しい妖怪のような笑い方だった。
俺はどきん、と体を震わせた。隣でジェシカが「やだー!カナちゃんってばこわーい!ちょん切るつもりねー!」と怖がるふりをして囃し立てていた。
「―――でも…。」
ママは手に持っていたグラスを置いた。
口元だけでクスリと笑う。そして、静かに俺を色っぽい目でねめつけてきた。
「一番悪い子なのは智だな。ろくでなしと分かっていてつきあってるんだから。」
やばい、矛先がこっちに変わった。ママの目がきらりと光った気がした。
ママの手が俺の顎を捉える。何故かひくりと喉が鳴る。
ママはその綺麗な唇を俺のに近づけると、至近距離で肉感的な声でささやいた。
「智は本当はいじめられるのが好きなんだろう…?」
目が離せなかった。
「悪い子は閉じ込めて躾けしなおさないとダメだよな…?」
俺は心臓がどくんどくん言った。背筋がぴんとなるのに、奥底から震えが湧き出てくる。
思わず服従してしまいそうになる。
これは、ハンターの目だ。
そして俺は抵抗もできない獲物だ。
まるで許しを乞うように俺の目元が潤っていた。顔がほてってしまい、なんだか気持ちがフワフワとしてしまう。
俺は、ママのこういうところがすごいといつも思う。
人の動きを一瞬で縛ってしまう。
俺ははぁっと甘いため息を吐いた。ママはそれを見て目を細長くした。

ママは他の客に呼ばれると、サッと目線を外して向こうに行ってしまった。俺はホッと胸をなでおろしたけれど、同時に寂しいと思った。
馬鹿だ。分かっている。
きっとそうなのだ。ママの言うとおりだ。俺はいじめられるのが大好きな大馬鹿野郎なのだ。
ちくんと胸が痛んだ。
心の中にあるもやがはじけて、広がる。
隣ではぁ〜っとため息をつくジェシカが見えた。
俺があ、と今更ジェシカの存在を思い出したようなそぶりを見せるとジェシカは眉を八の字にして笑った。
「私、分かっちゃった。」
俺が何のこと、と聞くと、ジェシカはぽんと答えを出した。
「智ちゃんはろくでもない男しか好きになれないのね。」
言われて、なんだかすとんと納得してしまった。
俺はろくでもない恋しかできない。
きっとその通りだ。
だって今までだってそうなのだから。



そもそもママとの出会いは俺がマサカズの前の男と別れた日におこった。
金が無くなる度に俺の金をせびりに来るような奴で、それでも時々はとても優しかった。分かっているだろう?俺にはお前しかいないんだ。
そう言いながら乱暴に抱いて、その見返りとでも言うように金を俺の財布から抜いていった。ある日、このままじゃやっぱりダメだと思って別れを切り出したら俺はそいつにぼこぼこに殴られた。俺はお前が好きだったのに、と涙ながらに殴ってくる男を見て、俺はやっぱりその男が好きだと思った。けれど、男は一度殴り終えるとすっきりした表情で「良い金づるだったのにな。」と言い残し、そのままどこかに消えた。それ以来男と会っていない。
その時、ふらっと夜の街に繰り出し、適当に入った店がhide-and-seekだった。今、思えば何故あのみすぼらしい扉をくぐったかは分からなかった。看板も何も無いようなこの扉をどうして開けようと思ったことすら覚えていない。ただその時すでに俺は酔っていて、多分、だからなのだと思う。そのおかげでこんなこじゃれたバーに出会えた。あの扉の向こうにどうしてこんなにも落ち着ける空間があると思えるだろう。ママに会えたのは奇跡かもしれない。
ママは初めて会う男の泣き言を辛抱強く聞いてくれた。俺はなんだかどうでもよくなり、自分が男が好きだということも、男に殴られて捨てられたことも全部吐き出していた。でもママは何一つ驚くような表情はせずに、ただ俺の話に耳を傾けてくれた。
「そんな男、忘れちまいな。」
初めて聞いたママの男言葉はとても印象深かった。けれど同時に心地よかった。
子供にするようにくしゃりと髪の毛を撫でられて、俺はそのまま夜通しそこに居座った。それから、ママは俺がどんな男とつきあってどんなにひどい目にあわされてもいつも俺の味方でいてくれた。
女性だけど、恋人じゃないけれど、けれどママは俺にとってとても大切な存在だった。



ママがカウンターに戻ってくると、俺はママの顔に目を向けた。
もうあの目はしていなかった。あの肉食獣のような目が俺は好きだった。
「ママ、最近、結構ここ混んでるね。」
「マスターと呼べといっているだろうが。」
俺の質問に対してママはそれしか言わなかった。にぎわっているのだから嬉しいとでも言えばいいものを。
俺はいつも水曜の夜にここに来る。土日に来るとママは俺に構ってくれないと言うのだ。仕方ないから俺はいつも水曜の夜、会社が何時に終わっても必ずここに寄る。
少し前、俺とママが出会った頃はもう少しすいていたはずだ。
人気が出てきたのだろうか。なんだか少し寂しいな、と俺は心の中だけで思った。
すると、ジェシカがここぞとばかりにしゃしゃり出てきた。
「そりゃーそうよ。みんな、楽しみにしてるもの。」
ジェシカの言葉に俺は意味が分からないという表情を向けた。ジェシカは右手で口元を隠したが、どう考えてもあの口は笑っている。
「みんな何を楽しみにしているの?」
「さぁ?何かしらね〜。」
ジェシカはニヤニヤ笑いながら俺とママを交互に見た。俺は意味が分からず眉を寄せた。
そういえばなんとなく思っていたのだ。
ここのお客さんたちは基本とても静かだ。まるで何かを待っているような雰囲気。例えばオペラが始まる前だとかコンサートが始まる前。そういう空気をいつも醸していた。
(何かイベントがあるのだろうか?)
けれど俺が今まで来ていたときはそんなもの見たことが無い。
ジェシカは教えてくれなさそうだから、他の人に聞こうかと思ったが、ふと自分がジェシカやママ以外にこの店で知り合いがいないということに気づいた。もう1年近く通っているのだから、一人くらいいてもいいものを、何故か誰も俺の横には座りたがらない。
(多分、ホモだから敬遠されてるんだ…)
初めてここに来た日に俺はワンワン泣きながら自分のホモ人生を嘆いていた。
その醜態を知っている人たちはきっと俺となんかしゃべりたくもないんだろう。
そう思うと、ちょっとだけ気が滅入った。
「あらあら、教えてくれないからすねちゃったの?智ちゃん?」
隣でジェシカの楽しそうな声が聞こえる。ジェシカはどう考えてもサディストだった。
俺は更に頭垂れた。
「カナちゃんもいい加減教えてあげればいいのに〜。」
ポロリと発せられたジェシカの声が何故か俺に追い討ちをかける。
(ママ、俺に何か秘密にしているんだ…)
ガーンと頭の中で悲壮な効果音が鳴り響く。
相変わらず胸はちくりちくりと痛んでいく。
ママもいい加減ジェシカが邪魔になってきたのだろう。
「兼三、お前向こういけ。」
ペッと言い捨てた。
ジェシカはもぉ〜っとかわいらしい声で怒り返した。
「だーかーら!!本名で呼ばないでって言ってるでしょ!!」
ぷんぷんとでも口に出していいそうなジェシカだが、次の瞬間凍りついた。
マスターの顔がにっこりと笑みを浮かべていた。
普段なら考えられないような天使の笑顔だった。
「向こうに行ってくれるわよね?…兼・三・ちゃん?」
ジェシカはヒィィと小さく悲鳴をあげながら体を撫でた。
ジェシカはママが女言葉を使うのがひどく恐ろしい、と前言っていた。
俺はママは女性だから使ってもおかしくないと思うんだけれど、どうやらそこには長年の習慣が植え付けられているらしい。ママが女言葉を使うとそろそろやばい。それがジェシカの中で決まっていることだった。
そそくさとジェシカが違う席にうつっていくのを見て、俺は少しだけ肩の力を抜いた。



実はママと二人になったときに、言いたいことがあったのだ。


最近の俺は頭の中がぐちゃぐちゃで。
まるで子供のように自分が何を悩んでいるのかも分からなかった。
けれど確かに何かがやばいと警告を鳴らしている。
足元から崩れていく感覚が時々起こる。
本当はマサカズのことだってどうでもよかった。
浮気された時、あれ?なんでこんなにもどうでもいいんだろう、とひどく驚いた。
それくらい俺は今別のことで頭がこんがらがっている。

「ママ…。」
「ん?」

ママがこっちを見たとき、ああ、話さなくちゃと思った。
話して、頭を撫でてもらいたい。
あの時みたいに。
自分が救われた時みたいに。

「…自分が今まで信じてたものが、信じられなくなったらどうすればいいと思う?」

自分で思っていたよりも、思いつめた声が出た。
ママは少しだけ目を瞠った。
俺の声は何故か震えてた。
「い、今まで生まれてから25年間、疑ったこともないことなんだ。それが俺そのものだと思っていたくらいなのに。それが今になって違うかもしれないっ分かったら、…俺はどうすればいいの?」
喉が震えている。なんでこんなに怯えているみたいな声しか出ないんだろう。
ママは困惑した表情を作った。手を自分の額にあてて、聞き返した。
「ちょっとまて。表現が曖昧すぎてよく分からない。」
カァーッと顔が赤くなる。
分からないのはこっちの方だった。
なんで俺はこんなにも。
こんなにも。

不意にママの目線が俺から外れた。ママの眼が誰かに向けて鋭く光彩を放つ。
俺は後ろをそろりと振り返った。
190くらいある背の高いスーツ姿の男がそこに立っていた。
視線がかち合う。男が一瞬だけ眉を上げた。
「真治…今日は店になんか用事あったのか?」
ママが男に話しかける。
真治と呼ばれた男はママの問いかけを無視して、見定めるようにして俺を見てきた。ママがそれに気づき、眉間に皺を寄せる。
「何の用で店に来たって聞いている。」
ママの怖い声だ。
真治は不意に俺から目線を外すと、肩をすくめた。
「今日のうちに在庫整理したくて。」
「ウソツケ。お前がそんなんしてるところ見たことないぞ。」
真治は口角をクイッとあげた。ママはするどい目で真治を睨みつけていた。
「そういうこと言うなよ。可愛い顔が台無しだぜ?カーナーちゃーん?」
真治の手がママの頬を包む。ママはひどく不愉快そうな顔をした。
けど、その仕草がまるで二人の親密さをあらわしているように見えて、俺は。

俺はひどく驚いた。

「まだこんなママゴト続けていたのか?いいかげんやめたらどうだ。」
「黙れ。」
「はいはい。口出しして悪かったよ。」
そう言って、真治はママの頬をなで上げると、そのまま店の奥へと消えた。
その時、真治が一瞬だけ俺の方を見た。
その顔にはまるで見下すような嘲笑が浮かべられていた。

気分が悪くなったのは俺のほうだった。

「悪いな…。話、中断しちまった。」
謝るママに俺は声を震わした。
「ママ…、今の誰……?」
「ああ、アイツは真治っつって、一緒にこの店をやってる奴だよ。いわゆる共同経営って奴だよ。」
くらりと来た。
「…お、俺、帰る。」
「は?」
「…もう、俺、来ない。」
俺はすくっと立ち上がった。けれど脚が震えているのが見えた。それを見なかったことにしてお金をカウンターに置いた。
いなくならなきゃ。
店の隅でジェシカがこちらをまんまるの目で見つめていた。
バイバイ、ジェシカ。またね。
そう笑って言わなきゃ。
でもいえないんだ。
…いえない。
とにかくいなくならなきゃ。
俺はそう思って、足早にそこから出て行った。
俗世を遮っていたはずのステンレスの扉が俺という存在を吐き出して、キィィという音を立てて閉まっていく。
俺の隠れ家が遠のく。
完全に閉まると、俺の安住できる場所は消え去った。
俺はそこに一瞬だけ立ち尽くした。

(帰らなくちゃ。)

頭を働かせて、足に信号を送る。
路地裏を抜けて、大通りに出て、電車に乗って…。
そう順序だててやっと足がまた歩き出した。
ホッと息をつくと、不意に誰かに手をグイッと引っ張られた。

ママがそこにいた。
俺の大好きな獣の目をしていた。

「いきなりどうした?」
ママは努めて優しい声を出していたが、瞳に宿る怒りの方が本物の感情に見えた。

どうしたもこうしたもなかった。
あの男はママの恋人?旦那さん?
男女で共同経営なんていうと普通そういうのだろう?

俺が黙って、ママの手を振り払おうとした。
しかし、しっかりと繋がれていて振りほどけない。女の細腕とは思えない握力だった。

「いきなりもう来ないなんて…………怒るぞ?」

怒るぞ、が殺すぞ、に聞こえた。
俺を視線で射殺すつもりかと思えるくらい鋭い瞳だった。
体の奥から底冷えする。
怖い。
怖い。


おかしい。



なんで…



「俺、最近、変なんだ…。」

ママが眉を顰めた。
「さっきの話の続きか?」
俺は小さく首を縦に振った。
「今まで、俺、ずっと…自分がホモだって思ってたんだ。男しか好きになれないって信じてた…。なのに、最近、おかしいんだ。」
ママは目を見開いた。
「まさか女を好きになったのか?」
先に言われて泣きそうになった。
そうだ、そんなのおかしい。
俺はホモだ。男が好きだ。
ずっとそうだった。
なのに、なんで俺はこんなにも。
「ママ、怖いよ。初めてだよ、こんなの。信じてたものが間違いだったら。信じることさえも怖くなる。どうすればいいの?どうすれば俺は…。」
「ホモでもそうでなくでもお前はお前だろう。」
「そうかな?そうなのかな?」
ママに言葉にすがりつきたくなった。
そうか。俺はただ肯定してほしいんだ。
俺の今までの人生が、歴史が、このことを否定している。
それでも心がそれを求めている。
どちらに俺は従えばいい?
どちらを信じればいい?

「どっちでも智は智だ。」

ママがもう一度そう言うと、俺はやっと心が少し穏やかになった。
この気持ちも間違いじゃないのかな?
ずっとホモだったはずなのに、こんな事考えるのはおかしくないかな?

「俺、ママが好きなんだ。」

ママが息を呑んだ。
言葉にしてみるとなんだかやはりおかしかった。
やっぱりこんなの許されるはずがない気がする。
だっておかしい。
俺はおかしい。

「お、おかしいよね。俺、ホモなのに…。ママが好きで。しかも意味不明なんだ。俺、ママに抱かれたい。意味わかんないだろ、コレ。ど、どうすればいいのか…。」

大体ママがどうやって俺を抱くというのだろうか。自分で言っていて分からなくなる。
ママが呟くように聞いた。

「お前…だってマサカズのことは…」
「ほ、本当は、秘書と浮気された時にもう別れたんだよ…。」

でも、マサカズの話をするとママが怒ってくれるから。だから…。
そう小さい声で言うと、なんて自分が浅ましい人間なんだと思った。

涙が出そうになったのを堪えたら、突然、目の前が暗くなった。
何かと思えば、ママが俺を抱きしめている。
きっと同情だ。俺の言い分があまりにも情けなくて恥ずかしくて慰めてくれているのだ。

俺よりも大きなママ。
でもママは女の人なんだ。
だってほら。
ママの柔らかい胸が俺にあたっている。
どうしようもない。
どうしようもないじゃないか、こんなの。
「ママ、ゴメン…。俺、きっと頭おかしいんだ。」
抱きしめられながら俺がそういうと、ママの体が揺れた。
そしてそのまま小刻みに揺れ続ける。
「…?ママ、どうしたの?」
腕に更に力が入れられた。
痛い。
本当、ママは怪力だ。
このままじゃ俺は押しつぶされてしまう。
ママの体は相変わらず揺れていた。たえられないように声が漏れ出る。
「…クク…クっ…」
「…ママ?どうしたの、痛いってば!」
俺はもう本当に息ができないくらい抱きしめられていた。
もしかしてママ、俺のこと抱き殺そうとしている?なんてことまで考え始めたくらいだ、

その時。


パチン、プシュゥゥ…


何かがはじける音。そして空気が抜けていく音が俺の耳に届いた。
そして息苦しかったはずの圧迫が次第になくなっていく。

「…な、何?」

見ると、ママの胸が見る間に萎んでいった。

驚愕だ。
俺があわあわと口を開けていると、ママがやっと俺を離してくれた。

ママが唐突に自らの胸に手を突っ込むものだから、俺はわぁぁ!と悲鳴をあげた。
そして何かが取り出される。俺は見てはいけないものかと思って目をつぶろうとしたが、もう遅い。
目の前に出されたものは…

…袋詰めにされたアンパン?

「男なんだ。」

ママの顔を見上げる。
ママはひどく嬉しそうに笑っていた。

「本名は金井恭一(かないきょういち)。ニューハーフでもないぞ、れっきとした男だ。」

声が出なかった。
一瞬息をすることさえ忘れた。
それくらいの衝撃だった。

「うそ――――!!」


俺の大声にhide-and-seekの扉がキィッと開いた。
また俺の隠れ家が俺の生きる世界と繋がっていく。
俺がそちらの方を向くと、開いた扉の向こうでジェシカは面白そうに笑っていた。そしてその向こうには、大勢の客はわぁわぁはやし立てている。

意味が分からなくて、ママに助けを求める顔をしたら、ママは困ったように笑った。

「こんなでかくて声の低い女なんて普通いねーだろうが。」

そうだよ?
確かに俺よりも身長高いし。
野獣の瞳をしているし。
ママよりマスターって呼んでほしくて、
しかも男言葉。
声だって女性にしてはハスキーだと思っていた。

けど、綺麗だったんだ!
誰よりも綺麗で美しくて…。


不意にアンパンが取り出される瞬間が頭によぎる。
ああ、なんだかトラウマだ。これからは女の子の胸を見てあのシーンを思い出さずにはいられないだろう。

俺はがっくりとうな垂れた。

なんだこれ…。
体中の気が栓を抜いたように抜けていく。

「智、顔あげな。」

ママの声に条件反射のように顔をあげた瞬間、唇をがぶりと食われた。
店からおぉーっと歓声があがる。

俺は目をまんまるくした。

キスをしているというのにまるで食べられるような感覚だった。
パニックに陥った俺の視線がママのとかち合う。

ああ、そうだ。
この目。
ハンターの目だ。

俺を射止めるこの目。
いつだってぞくぞくさせてくれる。
大好き大好き大好き。

キスが終わると、ママが俺の耳元で妖艶にささやいた。

「俺のものになったからにはいい子にしてないと痛い目見るぞ。」

瞬間、顔が真っ赤に染まった。
潤んだ顔でママを見つめれば、ママの瞳の中の野獣が一層に燃え滾る。
「真治、後はまかせた。」
ママが口早にそう呟くと、真治は「ご自由に。」と肩をすくめた。
ママは俺の腕を引いて、店の二階へと連れ込んだ。
初めて店の二階なんて入ったけれど、中を見渡す余裕などもちろんなく。
まぁ、分かるだろう?
俺はそのまま、おいしくいただかれてしまった。






後から聞いた話だ。

俺は全然気づいていなかったが、このhide-and-seekという店はいわゆるMix Barといわれる店だったらしい。ゲイ、レズビアン、バイセク、ニューハーフといったあらゆるセクシャル・マイノリティーが集う店。俺は全然わからなかったけれど、ママもゲイだったらしい。そこに、俺は偶然にもある日、足を踏み込んだ。
その日、ママが女装していたのは本当に偶々で、全てはジェシカの陰謀だと彼は言った。ジェシカが無理やりママに女の服を着せたらしい。それがあまりにも似合ったので、真治も客もその日、ママが女装したままでいることを強要した。客にまでせがまれてしまったママは仕方なくそのまま女の格好をしていたらしい。そこにべろんべろんに酔った俺が店に入ってきたのだ、と。俺はママのタイプど真ん中で、ママはその瞬間からずっと俺を狙っていたとも言っていた。そして女装を続けた理由だが、俺はその時酔っ払っていたので全然覚えていないが、「こんな優しいママさんがいるならまた来ようかな〜。」とバカ面で笑っていたらしい。その日からママは俺のために毎週女装していた…ということだ。しかも俺の横に誰かが座るものなら、世にも恐ろしい目をして追い払っていた、とか。
…なんだか少し涙ぐましい。

ちなみにママが男だったことで守られた俺のアイデンティティーに関してだが。
ママ曰く、「お前のホモレーダーは意外に性能がいいようだ。」だ、そうだ。
ママが女性のままでも好きだったけど、でもやっぱり男の人で俺は安心した。
だって、俺ホモだし。やっぱホモだったし。よかった、ホモで。ホモ万歳。

で、…まぁそんな感じで。
俺とママは仲良くやっている。



今では水曜の夜だけじゃなく、暇ならいつでも通っている。
ステンレスの扉に落書きのように書かれたアルファベット。

hide-and-seek.

野獣がかくれんぼする店だ。





終わり



雄くさいオカマちゃんがかわいこちゃんを口説くというシチュエーションに萌えて書いてみたはいいが、思いのほか難しかったという…。反省。
written by Chiri(6/7/2007)