とあるファミレスで語り継がれている話



とある大学の近くにアヴェークというファミレスがあった。

男女カップルがそのファミレスに入ってきた時、慧(けい)は一瞬だけ瞠目した。男はえらく男前で女も可愛く華奢な体つきをしていた。男の手は女を自然にエスコートしていて、それが当たり前と言う風に女も受け止めていた。
慧は気づかなかったように顔を俯ける。手元には汗をかいたアイスティーが氷をからんと溶かす音をだしていた。
男は女を促すと、慧の座るソファ席の隣の席を陣取った。
背中越しに男の声が聞こえてくる。
「何飲む?ドリンクバーでいい?」
「いいよー。メグはファンタがいいな。」
「…分かった。とってくる。」
慧は冷や汗をだらだらと流した。
男の口はきっとほころんでいる。こんな優しい声を出す時は男はそういう顔をしているものだ。
男が席を立った。ちらりと慧の方を確認して、にやりと笑った。慧はそれを視野の端っこで目撃して、背筋を凍らせた。
(気づいててやってる?)
膝の上でこぶしを作る。一瞬にして体は極寒の地に落とされたように冷え切ってしまった。目の前のアイスティーが猛毒のように感じられる。
男が席に戻ると、メグと呼ばれた女性は嬉しそうな声でお礼を言いながらグラスを受け取った。
「で、どうしたのぉ?准ちゃんから呼ぶなんて珍しいよね?」
メグの声はこれ以上に無く興奮した様子で、目の前の男にうっとりとしながら聞いた。
男は彼女の向かいの席に深く座ると、そのままメグの顔をすっと見た。
「大切な話があるんだ。」
「え〜…大切な話ぃ〜?」
メグは不思議そうな顔で首をかしげてから、「あ!」と声をあげた。
「もしかしてぇ、前からメグがお願いしてたこと?」
「なんかお願いされてたっけ?」
男は優しい声のまま、メグにたずねた。メグは半音高い声で返した。
「もぉ!!覚えてないの!?前からメグ以外の子たちとは別れてって言ってたじゃない!!」
「あぁ、そうだったな。ごめんごめん。」
男はメグの目をみたまま、そう言った。メグは不満そうに口を尖らせたが、その目にはもう本気の怒りなど宿ってはいなかった。
(アイツ、人の目を見て、嘘つくもんな…)
慧は男の言葉を聞いてそんなことをぼんやりと考えていた。
メグの言葉を頭で反芻する。
メグは「メグ以外の子たちと別れて」と言った。やはり今も他に女がいるのだ。それも複数。それをメグも知っていてあの男とつきあっている。男にはそれだけの価値があるのだ。慧だってそのことを知っていた。
けれど実際にこうやって二人で会ってるところを見るのはひどくいたたまれなかった。
(なんで…)
慧は深くうな垂れた。視界が自分の前髪で暗くなった。
(なんでアイツ、俺をここに呼んだんだろう…)






男の名は早勢准一(はやせじゅんいち)と言った。
慧とは大学に入学した頃からのつきあいだった。ただのつきあいではない。そこには性的な意味も含まれていた。
最初に准一に気づいたのは慧だった。
自分と同じ学年に随分と自分好みの男がいると思っていた。がっしりと作られた体、けれど雄雄しすぎない顔立ち。全て自分の持つ理想像にぴったしだった。けれどだからといって何もアクションを起こすこともなかった。目の保養といった風に時々ちらりちらりと見ては至福を感じる程度だった。
そんな慧に初めて話しかけてきたのは准一の方だ。
慧は自分が男が好きな人種だということを秘し隠しにしていたが、准一はいともあっさりとそれをやぶった。
「俺のこと好きなの?好きなら抱いてあげようか?」
准一は聖人君子のように笑いながら、そう言った。
慧はいきなりの准一の言葉に戸惑ったが、准一がそんな慧を見て「嫌なら別にいいよ?」と言って去ろうとした瞬間はじけるように「抱いてください!!」と声を張り上げた。准一は慌てて慧の口元を抑えたが幸運なことに誰もその言葉を聞いていた様子はなく、准一は少しだけ怒りながら笑った。
「お前、声でかすぎだよ。次やったらお仕置きな。」
慧は真っ赤な顔をして小さくごめんなさいを言った。准一は慧の髪の毛をくしゃくしゃにかき回しながらハハハっと笑った。

准一がそういうことに関して見境が無い人間だと知ったのは何回か抱かれた後だった。
准一の部屋で慧がくつろいでいたりすると、甘い移り香をさせた准一が平然とした顔で帰ってきて「ただいま、慧。」だなんて挨拶する。准一のアパートで彼を寝ずに待っていた慧が、朝帰りする准一を迎えることだってよくあった。
慧はそれについては何度も悩み、何度も准一との別れを決意した。けれど、そうやって慧が切り出そうとする時ほど准一はいつも「元気ないな?今日は一緒に出かけるか。」などといって時間を設けてくれたり、甘い言葉をささやいて抱きしめたりしてくれるのだ。その度に慧はその温かさを手放せなくなる。
結局、准一がどれだけの女とつきあっていようとも男は自分だけだから…だから全てを許すという最後の砦に慧は篭城するはめになった。

ギリギリでつながっていた二人の糸がキリキリと音をたてながらほころび始めたのはいつからだろう。

大学を卒業して准一は院生として残り、慧は東京の一流商社に就職した。
ただでさえ慧は准一がつきあっている人間の一人でしかいなかったが、それに加えて距離まで遠く離れてしまった。慧はもう本格的にだめかと思ったが、准一は別になんでもないような口調で言った。
「俺たちの関係も今までと同じでいいよな?」
すっかり縁を切られるつもりでいた慧は涙ながらに喜んだ。
「…いいの?俺、遠距離だし、これから全然会えないかもしんないのに…。」
「そんなん別に関係ねーし。俺はずっとお前が好きだし。」
慧は空を仰ぎ、わんわんと泣き崩れた。
泣きながら准一にすがる。准一は慧の背中を優しく撫でて、ぐしゃぐしゃになった慧の顔に何度もキスを降らした。
「まいったな。離れたくなくなる。」
准一は困ったように笑いながらそれでも慧を離さずにいてくれた。
慧はその時、准一が自分以外に何人とつきあおうがそれでもいい、准一がいい、と真剣に思った。准一の赤い糸はいくつにも分かれていたが、それでもその一つが自分とつながっていればそれでいいと思った。
だからこそ二人の絆は今まで続いたのだ。
けれど、慧の入った会社が休む暇も無いほどに忙しいことと准一が院生として遊ぶ時間を持て余していたことが二人の関係を次第に変えていった。
准一が電話する度、慧は仕事中で出られないことが多かった。休日も出勤ばかりで准一と会うこともできなかった。
ただ一つ。変らずに続いたこと。それは慧に対する准一の留守番電話。

『いつも忙しそうだけど、ちゃんと食べてるか?』
『体調くずしてないか?』
『寝るときはちゃんとあったかくしろよ。』
『めんどくさくても飯はちゃんと食べるんだぞ。』

准一の声を聞くたびに慧は泣きそうになった。
けれど深夜に准一に電話をするのは憚れたのでいつもメールで返した。

『ありがとう…、准一、ありがとう。』

まるで准一の片思いのような日々だった。
なのに、本当は間逆なのだ。
好きなのは慧の方で准一を手放せないのは慧の方だった。
准一はたくさんの女とつきあっていて、それでも慧のことを決して忘れていなかった。それが口惜しいのに嬉しくてどうすればいいのかなんてわからなかった。

そしてとある休日。
久々にちゃんとした休みをもらえた慧は准一からの電話にやっと出られた。

「…准一?」
「慧か?ハハ、話すの久しぶりだな。」
「…うん。」
「元気か?ちゃんと上手くやってるか?」
「……うん。」
准一の声はいつも優しい。穏やかで、甘い。

(…それを俺以外の女にも使ってるの?)

「慧、次はいつ会える?」
「…ごめん、分からないんだ。」
「慧、分かってんの?俺たちもう4ヶ月も会ってないんだぞ?」
「…うん。」
准一の声に優しさ以外の感情があらわれ始めた。曖昧な慧の言葉に苛立ちを見せはじめたのだ。
慧は自嘲するような笑みを浮かべた。
会えない時間が育てたのは愛なんかじゃなかった。
猜疑心だ。
慧が必死になって仕事をしている間、准一は何をしているのだろう。
女と遊んで?抱いて?慧がいなくなったのを喜んで?
今まであった塵のような自信が一気に吹き飛ばされていく。
風が通り過ぎれば慧をまとっていたメッキは完全に剥がされていた。

「准一…。」
「なんだ、慧?」
「なんか、俺たち、このままじゃダメだよな?」
「何がダメなんだ?」
准一の声が静かに焦りをあらわしはじめた。
「だって、こんなんじゃ付き合っている意味なんてあるのかな?」
慧は会社で忙しくて。
准一は慧一人とつきあっているわけではなくて。
そんな二人が恋人だと?
笑っちゃうよ、と慧は口角をあげた。
「慧、ちょっと待て。お前、何考えてる?」
「准一…、俺、さ…。」
「やめろって。俺はこのままで十分…。」
「違うよ、俺はただ…。」

プツリ

そこで電話が切れた。准一が一方的に切ったのだ。
慧は気づかずにその次をしゃべっていたが、准一まで届いていなかった。
プープー、と二人を結ぶ絆が切れた音だけが耳にこだました。

(このままじゃダメだ。)

慧は暗闇の中で光を失った携帯を見つめた。

(このままじゃ…)

そうしてやっと慧は決心できたんだ。






いろんな会話が聞こえるファミレスの中。
准一の声だけが慧にはふるいをかけたようにはっきりと聞こえていた。

「…ガキができたんだ。」

准一は今までの話の流れを断ち切るように、突然そう言った。
メグは見る間に驚愕するような表情になり、後に怒気をあらわにした。
「ハァー??何いってんの??子供って、、えぇ!??」
今まで間延びしていたメグの語気が一気に感極まる。
准一は初めてメグから顔をそらした。
「…そいつを一番愛している。そいつにガキができたっつーから、俺はそいつとそのガキを養いたいと思った。だからメグとは、もう会わない。」
「准ちゃんは、私を…捨てるの?」
「そう思ってもらって構わない。」
メグはいきなり声を荒げた。
「嫌よ!ひどい!私は今までの関係でいいの!その女がいたって子供がいたって私は構わない!だから!」
「ダメだ。俺はそいつがいないとダメなんだ。そいつをなくすくらいならメグだって他の女だってためらい無く切る。」
きっぱりした准一の口調にメグはいきなりワァーンと泣き出した。
嘘の涙ではなく、本物だ。メグだって本当に准一を愛していたのだ。

准一には不思議な魅力がある。
穏やかで全てを包み込んでくれるような優しさだ。けれど近すぎないし、縛らない。
少し距離を置いて見守ってくれている。

メグの泣き声を聞きながら、慧は自分の意識がぼろぼろと崩れ落ちていくように思えた。

(子供ができた、だって。)

握り締めていた拳が手先から真っ白になっていった。
(そんなの…)
そんなの慧は知らなかった。
あの時だって、准一はそんなこと言ってなかった。
けれど、もしかしたら。そう、もしかしたらあの時に見たことが全てをあらわしていたのかもしれない。






准一に一方的に切られた、あの電話の後、慧はすぐに准一に会いに行った。
月曜日の正午。
会社も仕事も全て放って、准一に会わないと、と思った。
朝一で新幹線に飛び乗り、終始緊張したまま准一の家へと向かった。
アパートの扉が開くと、准一は信じられないという顔で慧を見た。
慧は口を一文字に結んで、准一の顔を仰ぎ見た。
准一は相変わらずの艶やかさだった。
慧と会ったときと同じ優しい目元と鼻筋の通った顔。
日頃の生活でくたびれている慧とは大違いだった。

けれど。

それでも手放せないのだ、この男を。
慧は涙で目元を濡らして言った。

「俺、会社やめる。こっちでもっと時間の取れる会社探す。准一とずっと一緒にいたいんだ。」

准一は驚いた顔をしていた。
慧は准一の服を掴みながらうーっと唸った。
結局は捨てられない、と思った。
もし准一と別れれば、と何度も思った。もはや准一と付き合っていくことは自分を暗闇に突き落とすことと同じように思えた。けれどそれじゃダメなのだ。
やっと就職できた一流の会社を捨てて、向こうでの生活を捨てて、それでも准一を捨てることはできないと思った。
「…お、俺のことを一番に好きじゃなくてもいいから…。…でも俺は准一が一番好きなんだ。」
「…慧。」
口から出てくるのはおよそ男とは思えないような女々しい言葉ばかりだった。
慧は顔をあげるのが怖かった。准一がどんな表情で慧の言葉を聞いているかがどうにも予想できなかった。

すると、ふと部屋から誰かの脚がひょろりと現れるのが見えた。
白くスラッと伸びた脚。

「准一、誰が来たの?」

そう言って、中から現れたのは、綺麗な女の人だった。
身長も高く、まるでモデルのようにしなやかな体つきをしていた。
慧は自分の体温が一気に上がっていくのを感じた。
顔から火が吹きそうだった。
(准一はこの人と…)
そう思った瞬間思考がぐしゃぐしゃになった。
ただ自分がその場にいてはいけないと思い、それこそ本気で逃げ出した。
「慧!待て!」
後ろで准一が叫んだが、もはや慧の耳には届かなかった。
慧は自分の体の限界を知らないように走り続けて駅2本分離れるとやっと息をついた。涙がいつの間にかあふれ出ていた。
(准一の一番はあの人なのかな…?)
嫉妬の炎で狂いそうだった。
けれど慧にそんな資格など無いのだ。
(あんな風に逃げ出しちゃ、ダメだったよな…)
慧は自分のしたことを振り返り、ため息をついた。
准一が慧のことを一番に好きじゃなくてもいいから、と言った側から逃げ出した。
矛盾している。こんなんじゃだめだ。
こんなんじゃ、准一に付き合ってもらえない。
(全部なくなっちゃった)
一つのものを手に入れようと思って全てを捨てたのに、なのに結局この手には何も残らないなんて。
慧はその場にうずくまった。顔を胎内に戻すように光から遠ざける。
すると突然ズボンのポケットから音楽が聞こえてきた。
携帯電話だ。
見ると、メールが一通受信されていた。准一からだ。
そこには簡潔に一文だけ記されていた。
『あさって、11:00にアヴェークに。』
アヴェークとは二人がよく利用したファミレスだ。
そこにいったらどうなるのだろう。
二人の関係に終止符が打たれるのだろうか。
(いくのが、こわい)
けれど結局自分は准一に会いにいくだろう。
そんなこと、最初から慧には分かっていた。






子供ができたという女の人とはあの時慧が会った女性だろうか。
(綺麗な人だったな…)
確かあの時のその女性の格好はキャミソール一枚にショートパンツというものだった。
慧を一瞬だけ見て、きょとんとした顔をしていた。慧が准一に抱かれている人間の一人だなんて思いもしなかっただろう。
(准一はあの人と結婚するのかな…。)
結婚して、子供を育てて、お父さんになって、幸せに暮らす。
慧の頭の中で幸せの象徴のような家庭が一瞬で創造された。
慧は両手に顔をうずめた。

(なんであの時、あの女を殴っとかなかったんだろう…)

そうしたらお腹の子は流れたかもしれなかった。
准一はもう少し慧とつきあってくれたかもしれない。
そんなことが頭の中をよぎって、慧はぶんぶんと頭を振った。
ひどく浅ましい考えだ。
そんなことをして、どうするというのだ。

(きっと…准一は俺にこのことを伝えたかったんだろうな…。)

慧は濁った瞳のまま、ぼんやりと考えた。
今日、ファミレスに呼んだのはこの為だったのだ。
メグには直接的にそれを伝え、慧には間接的に同じことを伝える。きっと慧には直接言うことさえもめんどうくさかったのだ。

これで本当に全てをなくした。
慧の目の前にあるアイスティーはいつのまにか全部の氷が溶けていた。
形があったはずの氷は時間がたてば溶けていくのが自然だ。
なんだか慧は無性にそのことが切なくなった。




慧の後ろではメグの泣き声がまだ聞こえていた。
ファミレスの中はまるでそんなメグと准一を気づかったような静かな空間へと変わっていた。
その間、准一は何も言わずにそこにいただけだった。
彼女を慰めようともせず、触れることもしなかった。彼女が少しでも期待しそうな言動をしないように頑なに決めているようだった。
(それほどまでにその女を愛しているのか…。)
慧はそう静かに悟った。そしてきっとメグもそう思ったのだろう。
メグは突然立ち上がった。
テーブルに置かれたファンタを手に取ると、それを勢い良く准一の顔にぶつけてやった。

バシャァ

「准ちゃんなんて大嫌い!!」

バッグを手に持って駆けて行くメグを瞳だけで見送ると、准一はやっと息ができたように長いため息をついた。
事態を見ていた店員が慌てておしぼりを持ってきて、それを准一に手渡す。
准一は憑き物がとれた顔で「どーも。」とお礼を言った。
顔全体をそれで拭いてから、自分の着ていた服を見下ろした。
「あーぁ、洗濯でおちっかなー、これ?」
服にべったりとついたファンタオレンジを見ながら嘆息した。


「…で?」


准一はおしぼりをテーブルに置くと、体を後ろにひねった。左腕をソファ席を区切っていた低い仕切りの上にのせる。


「なんでお前泣いてんの?」


准一が見ると、そこにいる人間の頭が小刻みに震えているのが分かった。
准一が慧の肩をつつくと、慧は怒ったようにその指を振り離した。
「何怒ってんだよ!」
「…お、俺、知らなかったんだ、もん。」
慧が震える声で呟いた。准一は片眉だけぴくりとあげた。
「お、前に子供が、で、きたとかす、好きな女がいる…とか…。」
准一は目を細めた。小刻みに震える頭をじっと見つめる。
「お、俺、そんな、ん、知らない、で、あんな、こといって…」
慧はひくりと体を大きく揺らした。
「ばっっ、ばっかみてーじゃ…ん…」
准一は眉に縦皺を寄せて、不機嫌そうに唸った。その態度に慧はぴくりと反応した。
(うざいよな…俺…サイアク…)
慧は更に身をちぢこませたがそれを准一が無理やり引き上げた。
慧の頬を両手で挟むと、無理やり准一の方に向かせた。
無理な体勢にさせられ、慧は思わず「いっ!」と声をあげた。

「お前、何勘違いしてんだよ!!」

真正面にある准一の顔は拗ねるように照れていた。
(え?)
慧は上目がちでおずおずと小声で聞いた。

「……勘違いって?」
「子供も好きな奴もお前の事だろう!!」
「へ!?」
「だーかーらー!!本当に子供なんてできてないの!!…まぁ、お前だってガキみたいなもんだろどうせ…。」

慧は目をぱっちりと開けた。
(い、意味が分からない。)
けれど、准一がまるで慧が分からないのがいけないような態度だった。

「なんだよ。俺、お前があんなこと言ってきたから…」

(あんなことって…?)
慧が准一のアパートを訪ねた時のことだろう。慧は会社をやめてでも准一の側にいたいと言った。
准一はその続きを言いかけて、顔を振った。
「…違うな、本当は俺が悪かったんだ…。俺が、全部悪い。俺がすごく臆病だったから。」
「…臆病?」
知らない言葉を聞いた気分だった。
准一が臆病?そんなの考えたことが無い。
准一は髪の毛をかきあげて、言った。

「…俺はずっと前から…お前が一番だった。けど、いつお前に捨てられるかわかんなくて、俺本当ダメな奴だからさ、だからいつも逃げ道を置いておきたかったんだ。」

それが複数の女性という存在だったのだろうか。
慧は神妙な様子で准一の告白を聞いていた。

「お前、何度も俺と別れようとしたよな?そのたびに、俺本当は怖くて。捨てられたくなくて。お前にすがりついてきた。」

捨てる、捨てないの権限を持つのは准一のほうだと思っていた。しかし准一は全く正反対のことを考えていたのだろうか。
慧が恐れていた不安を准一もまた同じように独りで抱えていたのだろうか。

「それでもお前に捨てられたら俺絶対生きていけないから。だから、お前一人だけを好きにならないように他の女ともつきあってたんだ。」

髪の毛を水滴で濡らしながらの告白はひどく艶かしかった。
初めて男が発した本当の弱音だった。瞬きすらできなかった。ずっとこの男の姿を見て覚えておかなきゃ、と本能的に思っていた。

「お前がこの間、うちのアパートに来てくれて。会社も全部捨てて俺を選んでくれて…。俺やっと自分に残してきた逃げ道をなくそうって思った。だから、女を呼び出してこうやって一人一人にちゃんと別れを切り出してる。」

男は子犬のような表情で慧を見つめた。
そうな風に慧に見えてしまうのはどこか神経が麻痺しているからだろうか。

「お前に今日のこれを見せたのは、本当に他の女と別れたっていうのを証明したかったからだ。」

そう言って男は自分の髪の毛をもう一度後ろに流した。


いつのまにか慧の涙は止まっていた。

慧は准一の顔をじっと見つめた。目と目がかちんと出会う。
瞬間、慧は顔を和らげた。仕方ないなぁ、といった顔だった。

「…なんで他で子供ができたなんて言ったんだよ。」
「一番後腐れが無い理由だと思ったんだ。」
「…天然サドめ。」

准一が照れたような表情を作った。
(何故照れる、バカ…)
呆れてしまうが、少し可愛い。
慧は自分より少し上にある頭を撫でてやった。髪についたファンタが不快な感触を促す。
「うわ、お前の髪、ベタベタするんだけど!」
「仕方ないだろう…。」
准一が情けない顔を作った。
そして、二人して顔を合わせて笑った。

突然、准一が体を乗り出して、慧の唇に己のをかぶせた。
慧はいきなりのことに驚いて、体を引き離そうとしたが、准一が離そうとしなかった。

「ん…んん…。」
覆いかぶさってくる准一の唇はにんまりと弧を描いていた。

視界の隅ではファミレスの店員が手に持っていたお盆をするりと掴み損ねていた。
ハンバーグを食べていた小さな子供が慧と准一を指さしていた。その横でその親が子供の視野をさえぎろうと必死になっていた。

(ああ、このファミレス一生来れないな…)

慧はどこか冷静なところでそんなことを考えていた。

もしかしたらこれはこのファミレスの伝説として語り継がれるかもしれない。
男女が修羅場を経て、男がジュースを浴びさせられ、女は泣いて帰り、その後残った男が隣の席の男とチューをした、なんて。

ひどい伝説だ。

(まぁ、いいや。)

慧は都合よく思考を切り替えた。
今はキスに専念しようじゃないか。



四ヶ月ぶりのキスは炭酸オレンジの甘い味がした。





終わり



浮気攻めでした。書いてみたかったの。
written by Chiri(6/2/2007)