ダディ・フー(5) 義父が春海の家に来なくなって2週間が過ぎた。 すっかり風邪が治った春海は柄になくイライラしていた。 イライラ、ムカムカ、イライラ、ムカムカ… 顔を見れば般若のような顔だ。 物憂げに何かを考えるを通り越して最近ではいつもこの顔なのだから、大樹も秋菜も遠めでごくりと息を呑み、恐ろしい表情の春海を見守っていた。 春海はこの間の出来事を覚えていた。 (くそっ!)と思う。自分にも義父にも。 あの後気付いたら、ベッドの側に濡れタオルが落ちていて、更に扉が少し開いたままになっていた。春海は本当に近所迷惑考えず叫びだしたくなった。 夢の中だと思った。だから、あんな子供みたいに泣き叫べた。 けれどアレが現実だったと思えば、羞恥心がまず出てきて、そのあとに義父がどう自分を思ったかっていう不安、そして最後まで抱きしめてくれた義父のぬくもりが順番に思い出される。 最悪である。 しかも、あれから義父の訪問はぱたりとやんだのだ。 取り乱した春海に呆れたのかもしれない。 もしくは驚いた。もしくは気の毒に思った? どれにせよ、義父は逃げたのだ。 春海は近いうちに義父と話し合おうとあの日、決心したはずだった。 なのに、あんな風に泣き叫んでしまい、結局話しあえずにいる。 それどころか義父とあうことさえなくなってしまった。 それが春海を究極に苛立たせていた。 会わなくなれば清々すると思っていた。 けれど、こうもむかっ腹が立つとは春海も思っても見なかった。 (あんの、チキン野郎!!) そう心から罵る。 大体今まで義父はどれだけ春海が嫌がってもあのアパートに通い続けたのだ。それがたったあれしきの事で来なくなる方がおかしい。おかしいはずだ。 春海は頬杖をついて考えた。 このまま義父は一生春海に会わずにいるつもりだろうか? (そんなの、許さない…) ここまでかき乱されたのだ。義父のこともどうにかかき乱していかないと気がすまないような気分だった。 ただもう一度会いたい、だなんて乙女なことを言うつもりは無い。 けれど会いたいのは事実だ。会いたいが、それはアイツを罵るためだ。そう春海は心に言い聞かせた。 *** アパートに戻っても春海のイライラは止まらなかった。 無意味にかばんを床にたたきつけると、床に座る。テレビを見ようと思い、つけてみるが次の瞬間消す。本を読もうとして、やっぱりやめる。そんな繰り返し。 ふと、窓の外を眺めていた。外は次第に暗くなる空で覆いつくされていた。申し訳程度につけられている電灯がチカチカ光っている。 (そういえば、ここに投げたんだっけ…。) 義父が大事にしていた幼い春海によって書かれた作文。 それを慌てて取りにこのアパートを出ていった義父。 (本当、気色悪い…) だってどう考えてもあんなのは作文用紙だ。黄ばんでボロボロになった紙じゃないか。 義父はあの作文用紙のみで生きていくつもりなのだろうか? 自分という好きな人間がここにいるというのに? (本物はこっちなのに…) ふと自分の考えが馬鹿みたいだということに春海は気付いた。まるで作文用紙に嫉妬しているみたいだ。 春海はチッと舌打ちした。 嫉妬という単語が出てきてそれこそ馬鹿な考えだと思った。 不意に視線を感じて、窓の外に目を向けた。 覚えのある視線。 道路のチカチカと切れた電球が時々光を点すところに、義父の顔がちらりと見えた。 ベランダに体を乗り出して、それをもう一度見た。 やはり義父だった。 義父は春海と目があうと、サァッと顔を真っ青にして逃げようとした。 また暗闇の中に姿を消そうとする。それを見て慌てたのは春海だ。 「おい!!逃げるな!」 近所迷惑も考えずに大声を張り上げた。それを聞いた義父の体は呪文をかけられたようにビクッと震えて止まった。 そしてそろりともう一度春海の方を向いた。 「こっち来い!」 義父の顔が一瞬情けないものになる。 義父は言われたとおりにスゴスゴと春海のアパートに向かった。 そして何分か後に呼び鈴が鳴る。 呼び鈴が鳴った後はノックの音だ。 コン、コン 春海は立ち上がった。 そして今までこちらからは一度も開けたことのない扉に手をかけた。 扉を開けると断罪されたように肩を落とした義父の姿を見た。 それを確認して、春海は初めて義父は自分から部屋に招きいれたのだ。 義父はまるでいつものように菓子折りを持っていた。中を見てみれば、今日はプリンである。こんなものまで用意しているのに、何故すぐにここに来ないのか腹が立った。 「そこ、座って。」 突っ立ったままの義父は春海に言われて、床においてある座布団の上に座った。 そして春海は何も言わずにローテーブル越しに対峙するように座る。 目はあわなかった。義父は下を向いたまま、春海の方を見ようとしなかった。それにいらつきながらやはり会話を繰り出すのは春海の方だった。 「なんでいきなり来なくなったんだよ?」 「…出張だったんだ…。」 義父の声は蚊の鳴くような声だった。春海は声量を倍にして聞き返した。 「出張〜?」 「あぁ、神戸に。それに…ちょっと頭を冷やそうと思って…。」 春海は口を閉ざした。 そのきっかけはこの間の春海の幼児がえりだ。あれは蒸し返したくなかった。 春海は目をつぶった。すると義父の言葉が降ってきた。 「…もう、お前に怖いことはしたくないと思ったから。」 ふざけるな、と春海は思った。 両手で作った拳が戦慄く。 次の瞬間、震える唇から言葉があふれ出した。 「…遅いんだよ!そんなこと言ったって!!もうアンタは俺にたくさん怖いことしたじゃん!!俺、毎日が超怖かった!なのに今更来なくなるなんて虫が良すぎるよ!!」 今度は義父が口を噤んだ。 相変わらず床を見たまま、正座している。どこの反省少年だという有様だ。 春海はそのまま続けた。 「俺、アンタが来なくて超ムカついた!!あれだけ引っ掻き回しといてそれで終わらせるのかよって思った!!分かるか!?来ない方がよっぽどムカつくんだよ!!だからアンタは毎日俺に会いに来ないといけないんだよ!!」 「…春海?」 ぴくりと春海の言葉に反応して、義父が顔を上げた。不思議そうに春海を見つめている。 春海のしゃべっている言葉の意味が分からないのだ。 何故なら春海の言葉はまるで。 「俺、あれから考えたんだ。俺、アンタに罪を償って欲しいんだと思う。俺が味わった苦しい想いの分だけあんたも味わうべきだと思う!!だから!!」 すがりつくような義父の視線を感じながら、春海は全てを言い切った。 「だから、…アンタは毎日ここに来るべきなんだよ。俺もこれからはアンタを部屋に入れてやる。そんで俺の我儘も命令も全部聞けよ。けど絶対触らせないんだ。ちょっとでも俺に触ったら今度こそアンタのこと一生嫌いになる。そんで警察突き出してやる。」 まるで、義父がここに来ることを許すような科白。 いや、許してはいないのかもしれない。けれどそれ以外は許さないといっているようだった。 義父は顔を上げたまま、春海に震える声で聞いた。 「これからもここに来てもいいのか…?…本当に?」 「なんだよ!文句あるの!?」 春海が暴走したように聞き返すので、義父のほうが困ってしまった。 「いや、だって…。」 イライラしながら春海は声を張り上げた。 義父は何も分かっていないと思っていた。 「違うよ!!意味分かってる?生殺しだよ。生殺し。好きな奴がいても触れないんだよ!酷じゃん!つらいだろ!?」 ガァーっと食って掛かって、義父はきょとんと目をぱちくりした。 この顔は初めて見たな、と春海は心の中で思いながらそれでも義父の顔を穴があくほどの勢いで睨んでいた。 しかし、次の瞬間、ふわりと義父をとりまく雰囲気が変わった。 「…あぁ、そうだな。」 「なんでそこで笑ってるんだよ!!?」 春海の言葉に義父は驚いた。 「俺は今笑っていたか…?」 「笑ってたよ!俺には分かるんだよ!!」 「…そうか。」 「くっそぅ、笑うなよ…。」 春海は自分の出した結論に少し後悔した。もしかしたら義父を喜ばせているだけじゃないのだろうか、と不安になる。 けど、それも仕方ない。 もう、決めたことなのだ。 「もういい!プリン、食べる!!」 「ああ。」 春海は突然立ち上がり冷蔵庫を開けた。 先ほど義父の持ってきた菓子折りの中を確認する。今日はおいしそうなプリンが入っていた。神戸に出張に行ったのは嘘ではないのだろう。箱の表面には神戸の有名な店の名前があった。 そして中には普通のプリンと抹茶味のプリンが二つずつ。 (おいしそう…) 艶やかに光るプリンについ口元を和らげてしまう。 春海は無意識に口に出して数を数えていた。その際、つい癖で外国語の数で数えてしまった。 「……アイン、ツヴァイ、ドライ、フィア…」 ドイツ語の数の数え方だ。 1,2,3,4、まで数えてふぅっと息をついた。 (四つもある!) なんて笑顔になったのも束の間。 「まだ覚えてたのか?」 ハッとして振り返ってみれば義父の姿があった。 「いきなり後ろに立たないでよ!」 「すまない。」 春海がキッと睨んで指摘するとすぐに謝られた。 けれど春海は義父の言った言葉を思い返して、つい聞いてしまった。 「まだ覚えてるって何の事だよ…?」 「ドイツ語の数の数え方だ。俺がお前に教えた。」 「えぇ?」 そうだったっけ?と春海は頭の中で頭の中の記憶をフル稼動させてみた。 するとぽろりと記憶の断片が出てきた。それが出てこればあとはボロボロと芋づる式に思い出す。 そうだ、義父が春海に数々の外国語の数を教えていたのだ。 …いつも、お風呂の時間に…。 今思えばリスキーな思い出だ。ショタコンの変態親父と一緒にお風呂に入っていたのだから。 昔から春海は風呂といえば、本当にカラスの行水で、10分も風呂場にいればすぐに出て行きたくなるような子供だった。母が義父と結婚して、それからは義父と一緒に風呂を入れられるようになった。けれどいつも春海はザァーっと洗い流してチャチャッと湯船につかるとすぐ出て行こうとした。 見かねた義父はそんな春海に対して『ちゃんと湯船につかりなさい。』と言って聞かなくて、春海はいつもめんどっちくて嫌だなぁと思っていたのだ。 そんな義父は苦肉の策で春海にある日、言ったのだ。 『じゃ、英語で100まで数えられたら湯船から出てもいいぞ。』 『えぇ!?英語!?』 『そうだ。教えてやるから、繰り返してみろ。…ワン、ツー、スリー…。』 『めんどくさいよぉ…。』 『ダメだ。ちゃんと数えられるようになるまで湯船から出さないからな。』 それからはその義父の提案のせいで毎回、湯船に長くつかる羽目になったのだ。 最初の頃は、英語さえも100まで言えなくてほぼ特訓状態だった。しかも、義父はやたらその時だけスパルタで間違えたら1からやり直しだなんて言うのだ。逆に入浴時間が長くなりすぎてのぼせてしまったことも何度もあった。 更に、春海が慣れてきて英語で100まで簡単に言えるようになると、 『今度はドイツ語だ。』 と次なる課題を平然と渡してくるのだ。そしてそれも100までいえるようになったら当然のようにまた言われるのだ。 『次は中国語だ。』 『次はポルトガル語。』 『次はタイ語。』 『次はスワヒリ語だ。』 『くそっ、…次はマサイ語だ。』 『えぇぇぇ!!もう嫌だよ!!』 『口答えは許さん!とにかく覚えるまで湯船から出さないからな!』 「あの頃の俺はお前と少しでも長く風呂につかっていたくて、どうでもいい言葉もかなり覚えさせたな…。」 遠い目をした義父に対して春海はつっこまずにはいられなかった。 「ですよねーー!?マサイ語なんて今後一切使わないですよねーー!?」 「あれが二人でいられる一番長い時間だったからつい、な…。」 「ついって…。」 春海ははぁっとため息をついた。 (変態だ変態。いじらしい変態だ。) そう思いながらチラッと義父を見やる。義父はその視線に気付くと嬉しそうに眉尻を下げた。 (幸せな顔してる…) 他の人から見たらきっと分からないくらいの表情の変化だったが、春海には分かってしまった。 とことんこき使って懲らしめてやろうと思ったのに、この男にはそれも効かないらしい。 けれどだからといって春海にだってそれ以外どうしていいか分からなかった。 義父が春海の側から離れてしまえば逆に腹が立つということはもう立証済みなのだ。だからこの方法しか思いつかなかった。 春海は諦めた様子で笑みを浮かべた。 結局、自分は多分本当の意味で義父を嫌いにはなれなかったのだ。 それは認めるしかないようだ。 「あのさぁ…。」 春海は義父の顔を覗いた。義父は嬉しそうに視線をこちらに向ける。 「ん?」 「今度はさ、あのフルーツケーキ買ってきてよ。」 義父は目を瞬いた。 「お前、あれは嫌いだって…。」 「嘘だよ。本当は好きなんだ。」 「え?」 「好きなんだ。」 そう言って義父に笑いかけると、義父は小さく息を呑んだ。 あれから初めて素直になれた気がした。 本当は好きだった。あのケーキも……きっと義父のことも。 けどそれをまさか直接奴に言ってやろうという気にはならない。なるはずが無い。 自分を犯した罪を償ってからじゃないと言ってやるもんか。 春海の極上の笑みを見た義父は固まったままだった。 その顔に少しだけ赤みがさしていたのが春海には分かった。 (あ、赤くなってる?) それに気付いた春海はにやりと笑った。 どうやら今後一切触らせないという条件は意外に義父を苦しめられるのかもしれない。 その顔を見ることができて少しだけ溜飲が下がるような気がした。 それから毎日とあるアパートにスーツを来たままの男が通うようになる。 仕事が終わってから直で来ているせいでかばんも持ったままだが、左手にはいつも菓子折りがぶら下がっている。 呼び鈴を鳴らして、その後に続くノックの音。 コン、コン すると魔法のように扉が勝手に開く。 中の住人はぶっきらぼうに男を中に入れて、いつも菓子折りの中をすぐに見る。 そして極上の笑顔を男に見せるのだ。 ちなみに男がノックも無しに合鍵で部屋に入れるようになるのはもう少し先の話である。 おわり お義父さんは春海に彼女がいると誤解したまま完結です。(可哀想) written by Chiri(11/10/2007) |