チョコレートホリック



 俺はうまれついてのチョコレート人間だ。

 別にチョコレートが好きというわけではない。むしろあんなもの大嫌いだ。
 けれど、俺は生まれた時からある忌まわしい病気に取り付かれている。
 猪口冷糖病。現代の医学ではほとんど解明されていないが、糖尿病の一種だと言われている。体液が全てチョコレートになってしまう病気だ。正確に言うとチョコレートとよく似た成分の何かであるが、色と味が共にチョコレートに酷似している為、そう呼ばれるようになった。血液も鼻水も精液も全てがチョコレートである。常に甘い香りに包まれていて、茶色い液体が体中を巡っている。
 猪口冷糖病にかかっている人間はまさにチョコレート人間、それが俺の認識だった。



 去年のバレンタインデー、俺は自分をある男に捧げた。同じ会社の同僚の鮫島時雄(さめじまときお)、俺がずっとひそかに憧れていた人間だ。顔もよければ背も高く仕事もぬかりなくとってくる、それなのにそれを鼻につけないといった具合だ。異性と同じくらい同性に人気があって、それ以上に後輩に慕われている。人柄が人望に表れているのだ。
 そして、そんな奴はチョコレートを愛していた。あらゆるチョコレートが好きで引き出しには常にいろんな製菓会社のチョコレートが常備されている。休憩時にはいつもチョコレートを頬張っていて、それが女性社員には可愛いといわれていた。
 去年のバレンタインデー、奴は俺がもらった何十倍のチョコレートをもらっていた。あれでいて本命チョコは受け取っていないというところが時雄らしいといえばそうかもしれない。ホクホクとした様子で心底嬉しそうに紙袋に入れて抱えていた。
「なんか良い匂いがする」
 そんな時、すれ違った折に時雄がそう言った。バレンタインデーで鼻が過敏にでもなっていたのだろうか?鼻先をクンクンと俺の首先に近づけてきた。男前な顔が至近距離にあってしかもそれが前から憧れている人間だ、それはもう俺の心臓は爆発しそうだった。
「高坂(たかさか)、なんかすごく良い匂いする」
 俺の名前を知っていたのか、とその時初めて知った。一応同期だが、部署が違うのだから覚えていなくても不思議ではないのに。
 誘われるように時雄は俺の額に舌を這わせていた。ぴくりと俺は体を揺らした。
「甘い。何コレ?高坂、顔にチョコレート塗ってるの?」
 違うかった。それは俺の汗だ。
 現実に目と鼻の先にある時雄の瞳は不思議そうに揺れていた。真っ直ぐに見てくるその視線に俺は耐えられなくなった。箍がはずれてしまったのだ。
 いつのまにか自分から時雄の唇をふさいでいた。
「んっ……!」
 時雄は驚いたように目を見開いたが、次の瞬間、喉を鳴らした。押し付けるように口付けたからお互いの唇がつぶれていた。俺は余裕をなくしていたのだ。
 そしてやっと俺が唇を離そうとしたら、今度は時雄が俺の腕を掴んだ。そしてそのまま俺を壁に追いやって、逃げられないようにしてから再び深い口付けをされた。
 くちゅくちゅと音がなり、口の中から甘い蜜があふれる。時雄はゴクンゴクンと時雄の喉仏が上下する音が聞こえる。
 俺の唾液はチョコレートだ。時雄は知らなかっただろう。美味しそう口内の液体全てを嘗め尽くそうと、舌があちらこちら暴れ回る。
 やっと唇が離れた時、時雄の顔は初めてチョコレートの味を知った時のような少年の顔だった。
「俺、こんなに美味しいチョコレート、初めてだ」
 昂揚した時雄の顔は、今ならどんな誘惑にも誘われそうなくらいに無防備だった。
 それを見て、俺は迷わず決意した。

 つきあってください、いくらでもチョコレートは食べていいから。

 初めての味に酔っていた時雄は力強く頷いた。
 それを見て、俺の心は急激に高鳴る一方でズキンと小さな棘を埋め込まれた。

 俺はチョコレート人間だ。
 バレンタインで自分を相手にあげるのもおかしくない。
 きっとおかしくないはずだ、とその時は自分を信じ込ませた。



***



「本当不思議だな、猪口冷糖病って」
 口付けが終わると、時雄は俺の唇を親指の腹で拭った。その唇についたチョコレートさえも残さないように唇に含む。そんな様子を見ながら、俺ははぁっと自分のベッドにもたれた。
 俺たちの関係は長い事続いていた。もうすぐで一年。二度目のバレンタインデーが近づいていた。時雄は俺のことを名前で呼ぶようになり、お互いの家にも通っている。浮気もされていないし、してもいない。関係は良好に見えた。あくまでも外側から見たら、である。
「猪口冷糖病にかかってる他の奴も同じ味なのかな?」
 興味津津といった様子の時雄に俺は昔、医者に言われた事をそのまま告げた。
「似たような味はあっても同じ味は無いみたい。人の血だって全く同じ血なんて無いだろ?おれにとってのチョコレートってそういうことなんだよ」
「ふぅん」
 ふと、不安に駆られた。
 一年前告白を承諾された後、急激に仲良くなった俺と時雄を不審に思う奴は多かった。
 その頃に聞いてしまったのだ。
 会社の休憩室で時雄と同僚がしゃべっていた。

「なぁ、なんで最近お前高坂と仲いいの?」
「あー、なんていうか抑えられないんだよ」
「抑えられないって何が?」
「欲望が?あいつ、めちゃくちゃ美味しいもん持ってんだもん」
「美味しいもん?お前、それ餌付けされてんじゃねーの」
「うん、そうかも」

 まさか俺と時雄がそんな関係になっているなんて思っていない同僚はハハッ笑っていた。時雄も素直に笑い返していた。
 そんな中、俺だけが息を詰めてその場に立ち尽くしていた。
 気付いていた。
 時雄は俺よりも俺の体で作られるチョコレートが好きなのだ。それに付け込んで俺は時雄を誘い込んだ。だから文句なんて言えない。何もいえなかった。
 もし時雄が俺よりも美味しいチョコレートを見つけたら、きっと彼はすぐに去っていくだろう。そんなの分かっていた。分かっていたから俺は今も時雄に片思いをしていた。

 じれったい気持ちになって、俺は時雄の首に手をまわした。
「時雄、キスして」
「今したじゃん」
 俺のおねだりに時雄は優しく髪の毛に手を入れてくる。口元は笑っていた。
「普通の奴」
「ああ」
 口の中に入れない奴ね、と時雄が呟いた。
 チョコレート舐めなくてもしてくれるキス。そっちの方がよっぽど俺にとっては愛されている感じがした。
 ちゅ、とくっつくだけのキスが俺を安心させる。
「どうしたの、そんな顔して」
「時雄は俺のこと……」
「うん、好き。今までで一番好き」
「それは俺が、お前を、だろ?」
「なわけないじゃん。俺が好き。一番好き」
 今までで一番好きという言葉は今までで一番美味しい、に聞こえる。どこまでも疑心暗鬼にしかなれない。多分本当に好きなのは今も自分だけだ。
「好きだからこのままエッチしていい?」
 やっぱり、と思う。時雄はオーラルセックスが好きだ。時々は最後まで抱いてくれるが、大体はオーラルで終わる。
 俺の精液が美味しいらしい。まさか今まで自分のそんなものを舐めるなんてことをしたことなんて無かったから知らなかった。まるで食事をするように時雄は俺を抱く。いや、食事なんてたいそうなものじゃない。おやつだ。
「うん、いいよ」
 それでも俺は断れない。俺は時雄にずっと憧れていた。今も付き合っていても片思いだけれど、それでも時雄の為ならなんでもやってあげたい。そんな気持ちになってしまう。
 その夜、時雄は珍しく俺を最後まで抱いてくれた。快感に濡れた俺の顔を優しく撫でながら、口をつけるだけのキスを何度もくれた。
「……可愛いなぁ、お前」
 夢の中で時雄の声が聞こえた。
 美味しいの間違いだろ、とやっぱり俺はその言葉を否定していた。



***



 俺は障害者雇用で会社に雇われた。猪口冷糖病はあまり知られてはいないが循環器の機能障害の特例として重度の身体障害者として認定されている。
 会社は業界でも大手でグループを編成している本社である。こういう会社ほど障害者雇用もしっかりしていたり、逆に雇用しないと体裁が悪くなったりするわけである。
 そんな事情の中、俺は会社にとってはありがたい障害者だろう。猪口冷糖病は基本日常生活を制限される病気ではない。他の障害者と比べると動ける方だ。それでも何かあったときに対応できない為、営業や総務とは違うところに配属されていた。俺の配属先は主にデータ整理が仕事である庶務課だ。課に3人しかいないという会社でも辺境地とされている部署だ。
 そんなところにわざわざ来る人間は少ないが、その数少ない人間の一人が時雄である。
「なぁ、この間話していた統計の去年と一昨年分のデータが見たいんだけど」
「ああ、それならすぐに出るよ」
 庶務課にあてがわれている部屋は倉庫のつくりになっている。会社の膨大なデータ資料が整然と収容されているその端っこにパソコンとテーブルを置いて俺とそれ以外の女性社員二人が働いている。
 俺は腰を上げると、ずらりと並ぶ棚の奥へとズンズンと突き進んだ。それを時雄が追ってくる。
 目的の棚につくと、そこからフォルダーを二冊、去年と一昨年の分を取り出す。
 ところが中にある資料を確認する際、不覚にも紙で自分の手を切ってしまった。
「いッ……た!」
「ん?切ったの?」
 時雄は俺の手を取った。中指の先からぷくりと丸い血球ができていた。最も俺の血の場合、赤いというよりは赤茶に似た色であるが。
 時雄はためらいもなく、それを自分の口に運んだ。そして俺の血を舐めとった。俺はまるでドラマみたいだなと、ドキドキと胸を鳴らしながらその様子を見ていた。
「ん……?なんだこれ、甘い……っ?」
 時雄の声色が変わった。
 その瞬間、時雄は俺の指にむしゃぶりついた。
「え……」
 拭われるだけかと思ったら、時雄は口先を窄めて血を吸い出した。指から血がどくどくと抜けていく。
「ん……いしい……」
 時雄は夢中になっておしゃぶりを吸っている赤ん坊のようだった。
 俺はそれを呆然とした様子で見ていたが、ハッとして声を張り上げた。
「オイ!時雄!」
「んん……」
「やめろって!」
 時雄の口から指を無理矢理引き離す。
 時雄は一瞬すごい形相で見上げたが、俺の顔を見ると「あれ?」と呟いた。
「どうかしたー?」
 倉庫の入り口付近から庶務課の女性社員の声が聞こえる。俺は時雄の顔から顔をそらすと、心配してくれた社員に「大丈夫、なんでもない!」と返した。
 時雄はずっと俺の指先を見つめたままだった。吸い尽くされた俺の指はお風呂に入った後のようにシワシワになっていた。
 静かな倉庫の中でポツンと時雄の声が浮いて聞こえた。
「……今の奴、今までで一番美味しかった」
 どこかで聞いた言葉だと思った。
 そうだ、この間言っていた言葉と似ている。あの時は一番好きだといってくれた。
 けれど、今回は。
 今まで一番リアルな言葉だった。
 多分俺が危惧していた事はこのときから始まったのだ。






 どうやら俺の血液は他の体液と違って格段と美味しいらしい。
 それは極上な甘さだという。時雄の理性を奪ってしまうほど魅惑的な味。

 それから何度も時雄は俺に聞いてきた。
「あのさ、ちょっと血舐めてもいい?」
「え」
「ちょっとだけ、ちょっとだけだから」
 それを言われるたび俺は何度も悩んだ。そして悩みぬいては、最後には時雄に血をあげてしまう。
 指をカッターで軽く切って血を流す。それを時雄はおいしそうに舐める。次第に舐めるのでは足らなくなり、吸い付くようになる。
 時雄は俺のチョコレートに恋をしていた。

 時々、猪口冷糖病にかかった人間には人間としての尊厳がなくなるような感覚が起こる。体内を流れているのは血ではなくチョコレート、そんなきわめておかしな人間。体はいつも甘い香りをまとっていて、気温が温かくなればなるほど脳内が活性化してなんだかテンションが上がる。その逆で猪口冷糖病患者の大敵は寒さだ。チョコレートは寒いと固まってしまう。だから猪口冷糖病患者も気温の低いところに行けば死んでしまう。
 高校生の時、俺は一人、修学旅行の北海道に行けなかった。暖房のあるところを歩けばいいのだが、外に放り出されないと言う保証は無かったからだ。
 冬の日に外を歩くという事も危ない。一応体の体温を下げないようにする機械、言わば強力なホッカイロみたいなものはいつも持ち歩いている。だが、それがいつ壊れてしまうかなんて分からない。それに充電が切れた時点で機能しなくなる。
 自分は本当に人間なのだろうか?という疑問がぐるぐると頭の中をいつもまわっていた。
 本当は人間じゃなくて、……チョコレートなんじゃないだろうか。
 それならば、こんな中途半端な存在じゃなくていっそチョコレートになってしまいたかった。あのバレンタインデーの日に時雄に捧げた時点で食べてもらえるチョコレートになりたかった。

 時雄が俺の血を吸うようになって、随分と時間が経った。吸っている間の時雄は俺の声が聞こえていない。夢中で貪っている。
 最近ではよく眩暈が起こるようになっていた。おそらく脳貧血だろう。時雄には未だ「血を飲むのをやめろ」と言えたためしは無い。きっとこれからもいえないだろう。
 何故なら、時雄に血をあげるのをやめたらきっと俺は捨てられるだろう。
 前に、一度だけそのことに触れたことがあるのだ。

「時雄がこれからも俺の血吸い続けると俺ひからびて死んじゃうかもね」
 冗談に紛らわせて俺は自虐的に笑った。
 時雄は俺の言葉が聞こえなかったのか何も返さなかった。
「……なんて嘘だよ。死ぬわけないじゃん、ちょっと血抜いたくらいで」
「だよな」
 聞こえていなかったかと思っていた時雄は即答した。
 それが俺にとってひどくショックだった。
 でも仕方ないのだ。
 だって時雄は俺より俺のチョコレートが好きなのだから。

 このまま行けば俺はきっといつかは死んでしまうだろう。
 けれどそれがふさわしい末路なのかもしれない。
 チョコレート人間にふさわしい、皮肉な末路なのかもしれない。



***



「もういれていい?」
 俺の上から時雄の声が落ちてくる。真っ暗な部屋の中、時雄の目の白目部分が光って見えた。
「うん」
 目があえばキスを落としてくれる。そして唾液を吸われる。
 まだ俺とセックスをするほどには好きでいてくれているらしい。もちろん、チョコレートが目当てなのかもしれない。
 時雄がグイッと腰を進めてきた。
 久しぶりの性交は思ったよりもきつかった。いれられている部分がキチキチと音を立てている。
「ん、……っあぁっ……、痛いっ!」
 切れる!と思った瞬間、甘い香りがブワッと広がった。たちどころに部屋に充満する。
 ふと見上げると、時雄の目の色が変わっていた。嫌な予感がする。
「甘い匂い……」
 ああ、と涙が落ちた。
 挿入されていた時雄のものを抜かれると、時雄は俺の下半身へと移動した。切れている場所に口付けられる。
「あ、やめて!時雄!」
 ピチャピチャと舐められる音が不意に止む。
 吸われている。
「ん、おいしい」
「や、やめ……」
 そんなにも好きなんだ、愛し合っていたことも忘れるほどに?
 そう思うと悲しくて仕方なかった。
 なんでこんな風に生まれてしまったのだろう?
 溶けてしまいたかった。
 溶けてチョコレートになってしまえばいい。
 そして時雄の体の一部になれたらどんなに幸せか。
 そう思いながら生理的な涙をボロボロと流して、次第に呼吸が苦しくなった。
 頭が働かない。重くて仕方ない。
 時雄、助けて、と思っても時雄の顔は見れない。奴は俺の血をひたすら吸っている。
 体が重くなって、指一つ動かせなかった。

 ああ、死ぬのかな。
 なんてふと思って、本望だと思った。
 時雄に食べられて死んじゃうなんて本望だ。
 これがチョコレート人間にふさわしい死に方だ。

 そのまま、俺は海のそこに落ちていくような感覚で気を失った。
 どこか遠くで誰かが泣き叫んでいた。

「英二っ!おい、起きろって!」
 英二、俺の名前だ。なんだか久しぶりにその名前を聞いた気がした。
「俺はやだからな!絶対ひからびて死なせるもんか!」
 声と共に泣き声が大きくなる。
 あいつは俺がいつか言ったことを覚えていたのだろうか。
 でも、あれ?俺は誰に言ったんだっけ?
「もういらないから!もうお前の血、飲まないから!だからっ!」
 そうだ、時雄に言ったんだ。
 あの時もらえなかった答え。

「愛してるから!だから死ぬな!」

 夢の中でもらえた。
 こんな幸せなら死ぬのも悪くないのかもしれない。



***



 目が覚めると、そこは病院だった。
 見覚えがあるな、と思ったらかかりつけの病院のようだった。部屋の隅には白衣の女性が椅子に座っていた。
 起きた俺に気付くと、彼女は朗らかに笑った。
「ああ高坂さん、起きたの?」
 いつも診てもらっている女医の眞澄枝里子(ますみえりこ)先生は、立ち上がり俺の傍に歩み寄った。俺の手をとると顔を覗き込んだ。
「うん、顔色も戻ったし、大丈夫そうね」
 枝里子はにこりと笑った。
「あの、俺……っ?」
 なんでここに?って聞こうとした瞬間、昨夜の記憶が舞い戻ってきた。
 ちょっとまて。
 昨夜、セックスしている時に血が出て、そこで気を失った。ということは。
「あ、お尻の方は薬塗っておいたから!」
「な、ななななんのことですか!」
 枝里子先生はにやりと笑った。バレバレである。
 俺は観念してため息をついた。枝里子先生も目を伏せて、俺を無言で見つめた。
「……あのね、高坂さん、あなた鮫島さんに血舐めさせてたわね?」
 こくんと頷いた。
「当たり前だけど、あの血はどんなに美味しくてチョコレートに似ていてもあなたの血液なの。定期的に抜かれてしまえば貧血を起こすに決まっているわ」
「はい」
 俺が人間だということを思い出させるような口ぶりだった。
「私はいくら彼が好きだからって際限なく与えるなんておかしいと思うわ。チョコレートも愛情もよ。自分の命は大切にしなさい」
「はい」
 答えた瞬間に水滴が落ちた。ほんのり茶色い液体。俺の涙はチョコレート。甘くて美味しいけどそれでもこれは涙だ。なんだか切ない。
「それに……彼もあなたがそんなので死ぬの、望んでないはずよ」
「へ?」
 その瞬間にドアが勢いよく開いた。スライド式のドアは一旦壁まで戻るとまた反射して閉まりかけた。
「英二!大丈夫か!目が覚めたのか!?」
 時雄の声だ。
 ふと目をあわすと、時雄の瞳からブワッと涙が落ちた。何かの間違いかと思った。
「馬鹿っ!ちゃんと言ってくれよ!俺、お前が死ぬくらいなら何でも我慢するよ!」
 俺が何も言えずに黙っていると、時雄がツカツカと歩いてきて俺を抱きしめた。
「ちょっと、枝里子先生が見て……」
「知るかよ、そんなもん」
 時雄の力が強くなった。俺もなんだか感極まってしまい、ついには抱き返してしまった。ぎゅっと二人で抱きしめあって、なんだか一つになれた錯覚におちた。
 枝里子先生がため息を吐いたが、俺と時雄には聞こえていなかった。
 時雄の嗚咽が体の振動を通して聞こえてくる。俺はそれがたまらなく愛しくなった。時雄はちゃんと俺を愛してくれていた。チョコレートよりも、ずっと俺を。
 子供のように泣き出した俺を子供のように泣いている時雄が慰める。
「今までごめんな、英二」
「違うんだ、俺が何も言わなかったから」
 未だ止まりようの無い涙のチョコレートを時雄が右手で拭った。そしてそれを口に運ぼうとした瞬間。

「ちょっとストーップ」

 枝里子先生の声が俺たちの動作をとめた。
「鮫島さん、まさか私が言った事忘れたわけじゃないでしょうね?」
 枝里子先生の言葉に時雄はあ、っと小さく声を漏らした。
 俺は意味が分からず、時雄と枝里子先生の顔を交互に見た。時雄の顔がみるみるしょげてしまう。
「え、時雄何いわれたの?」
 俺が不思議そうに時雄の顔を覗き込むと、時雄は悔しそうに笑った。

「糖尿病」

 え。
 思わず固まってしまった。
「俺、糖尿病になっちゃったんだって」
 俺は口をぽかんと開けた。振り返って枝里子先生を見ると、枝里子先生は腕を組んで俺を見ていた。
「猪口冷糖病患者の血液は非常に栄養価が高いの。普通のチョコレートとは比べ物にならないの。それをずっと飲んでたんだからね」
 俺は口を開けたまま、時雄を再度見た。時雄は自分が情けないのか、眉をくねらせて俺を見ていた。
「それって俺のせい……」
「馬鹿、こういうのは自業自得って言うんだよ」
 そう言うと、時雄は俺を体ごと引き寄せて触れるだけのキスをした。
 一番俺が好きなキス。チョコレートも何も関係ない人間と人間のキス。

「だから言ったでしょ。愛情の垂れ流しはよくないってね」

 二人の世界に入っている中、枝里子先生の声が遠くでぽつんと現れて消えた。
 これからは気をつけよう、とぼんやりと俺は思った。



 その後、まさか二人とも持病もちになってしまった俺と時雄はトボトボと家路に着いた。
 夕日の色は美味しそうなオレンジキャンディー。艶のある土の色はチョコレート。おしゃれな家のレンガの壁はイチゴ色。
 世の中にはおいしいものがたくさんだ。
 それを制限されてしまった時雄の背中は哀愁が漂っている。
「あーあ、もう英二のチョコ食べられないのか……」
 なんとなくごめんね、と言いたくなった。けれどきっと時雄は俺の謝罪なんて聞きたくないだろう。
「せっかく好きな奴の一部を食べられたのに、それがもうダメなんてつらいよな」
 ドキッとした。好きな奴だなんて今までいわれたことなんてなかったから。
 俺が赤い顔をしていることは知らないだろう。夕日に当たった時雄の顔だって赤く見えるのだから。
「なぁ、聞けよ」
 時雄が俺の顔を見つめた。
 ふと俺は気付いた。
 あれ、もしかして。
 もしかして時雄の顔だって俺と同じように赤くなっているのかもしれない。
 
「俺があんなに夢中になったのはさ、きっとそれは英二のチョコだからだよ」

 恥ずかしい言葉の裏にあるものも夕日が全て隠していただけなのかもしれない。

 俺はうん、と頷いて涙を一つだけ地面に落とした。
 チョコレート色をした涙もやっぱり夕日に溶け込んで綺麗なオレンジ色をしていた。





おわり





言うまでも無く設定もフィクション。児童文学のノリで読んでくださいって書こうと思ったけど児童文学じゃ男同士でHしない…
written by Chiri(2/14/2008)