嵐のバロメーター
嵐のバロメーター



 あいつはいつも俺が帰るのを引き止めない。
 俺は服を纏い、その上にコートを羽織り、靴を履く。
 さっきまで裸同然で居た俺にとってはここまでの作業は結構時間がかかる。部屋の隅に放ってあったかばんを拾い上げて、扉を開き、夜風を確認する。
 そこでやっと俺は期待を込めた視線を部屋の中にいるあいつに向ける。
 俺の「帰る」という言葉は単なるフリなのだ。
 それこそ、あいつに「ちょ、待てよ! 今夜はイチャイチャしていようぜ。 帰るなんて言うなよ、もうばかん」と言われることを俺は期待しているのだ。
 これは言わば愛を試すバロメーターだ。
 でも流石に、もうこの愛を試すために繰り返された作業に疲れてしまった。
 俺は今、〇勝九十九敗なのだ。今まであいつが俺を引きとめたことはただ一度も無い。
 ただ冷めた視線で

「へぇ、帰るの?」

 と言うだけ。いつもそうだ。口元は少しだけ笑っている。最悪だ。真心という文字があいつの辞書には無い。
 俺がいなくなっても、きっとこの男には何のダメージは無いのだろう。その代わりそのダメージを俺が負うという理不尽さ。ハイリスク、ノーリターン。それを思うと、俺の寂しさは倍増する。

 しかも今日という日、外は大嵐。なんでも今年一番迷惑な台風が来ているらしい。電車も動いていなければ、外を歩く人影さえもない。天井を打つ雨の音は激しくて、俺らの会話を遮るほど。
 それでも俺はやはり帰るフリをする。
 分かるだろう? こんな日に俺が帰れるわけないじゃないか。一般常識がある人間だったら「いや、この嵐の中は帰れないだろう。 とりあえず今夜はうちで一泊していけよ」と言うはずだ。言うに決まっている。普通の人間なら。
 俺がコートを羽織りながら、ちらりとあいつを見た。
 あいつは薄ら笑いを浮かべながら、腕を組んでいた。

「へぇ、帰るの」
「……帰るよ」

 いつも通り伺う視線で俺は答える。あいつは表情を崩さなかった。

「ふぅん、こんな嵐の中チャレンジャーだな。 じゃ、またな」

 ほほう、それでもお前は人間か。さては人間の皮をかぶった鬼じゃないだろうか。
 何がチャレンジャーだ。チャレンジなんて俺はしたくないんだ。あいにくそんな無駄な向上心は持ち合わせていない。ただ、チャレンジなんてしなくていい、お前はここにいろ的なね? そういう言葉を引き出そうといろいろと頑張ってきたのだ。
 こんな溝の減った裏じゃ、大雨の中滑ってコケて顔面グチャグチャになるに違いない。そうして俺はきっとその時に鼻の骨を折って顔が変形してしまい、もう男として見れたものにならないに違いない。そうなってもいいのか。いや、そんな風にはならないけどさ。ならないけどもさ。そういう可能性を秘めているということを俺は言いたいのだ。そういう心配をお前はしないのか。お前は俺が好きじゃないのか。
 俺は自分のぶっ飛んだ思考に涙ぐみながら、靴をつま先で叩く。

「……じゃあな」

 俺は扉を開けると、部屋の外に出た。マンションの廊下は濡れていた。風に煽られて雨が入り込んでいて、俺もその雨を浴びる。外に出た瞬間、体温が二度くらい下がった気がした。外気が寒くて体の芯を冷やす。
 エレベーターのところまで歩いて、あいつが追ってこないかを確認する。ちらっちらっ。
 けれど、やっぱり来ない。
 見ろよ、この俺の持つバロメーターを。地に落ちた俺の哀れなバロメーター。



***



 しばらくすると、扉を打つ音が聞こえた。
 お前が去ったあと、俺はいつもそのままの姿勢で玄関先で待つ。いつも五分後に鳴るノックの音。その音が聞こえるまで俺はそこから動かない。
 俺が扉を開けると、お前が涙目で玄関先に立っていた。
「なんだ、帰ったんじゃなかったのか」
 お前は不満げに俺を見た。俺はゾクゾクとしながら、自分の中の何かが満たされていくのを感じた。

「……眼鏡、忘れた」

 お前が顔を真っ赤にしてボソボソと言った。そうして最後に「ちくしょう」と小さく呟いた。
 ハハッと笑ってしまう。
 いつもそうだ。そうやって眼鏡を忘れたフリをして、お前は戻ってくる。あんな度の入っていない眼鏡、日常生活ではいらないことを実は俺は知っている。それなのに、わざわざ眼鏡をしてこの部屋に入り、一度去り、そして戻る。なんだかんだで本当に帰ったことは一度も無いんだよな。
 知っているか? 俺はそこでお前の愛を計っている。
 お前が眼鏡を忘れてこの部屋に戻る度にお前に愛されていると実感する。おかげで俺の持つバロメーターはお前のくれる愛情でいっぱいだ。
 ところで、俺は考えた。
 流石にこれで百勝〇敗。これではお前があまりにもかわいそうかもしれない。今までもらった飴のお返しに、今日はとびきり甘い飴をあげなくてはならない。
 俺はお前の欲しい言葉を幾分も甘く煮てからプレゼントする。百回分、甘く、より甘く。

「……俺さ、いつも思ってたよ。 お前が帰っちゃうの、やだなって」

 お前は顔をあげた。瞳が大きく見開かれる。
 俺は笑いながらお前を抱きしめる。

「だって俺さ、お前のことが好きで好きでたまらないんだよ」

 ぎゅっと俺の背中に手をまわすお前。心なしかお前の体温が二度くらい上がった気がする。
 お前のバロメーター、今はどうなっているのかなぁ。
 なーんてことを思いながら、俺はお前の唇を探した。





おわり



もう眼鏡は忘れなくていいよ。
written by Chiri(3/30/2012)