アライバル





本当に嘘のような真実だった。

もはや秀平は全ての不幸が必然であるようにしか思えなかった。
歯車のように、一つ一つが機能して着実に秀平を地獄へと誘っていくという錯覚だ。
錯覚ですらない。そういうことなのだ。それが運命と言う名のものなのだろう。

秀平が野球の才能をかわれ、東京の学校へと引っ越したのはちょうど一年くらい前の話だ。
より強い生徒を全国から集めて野球の名門に通わせることなど、今時はよくあるものなのだ。その一人が秀平だった。
家族は反対した。野球は別に地元の学校でもできる。甲子園だって十分狙える。けれど、秀平はより高いレベルで自分の力を試したかった。だから、逃げるようにして15年間育ててくれた家を出て行ったのだ。
それから家族から連絡が来ることがあっても、秀平はあえて避けて通ってきた。
中途半端な自分のまま家族に会うのは嫌だった。ふとした拍子に愚痴をいってしまいそうになる。
だからせめてレギュラーになれたら、ちゃんと言うつもりだった。今までごめん、そしてありがとう、と。
今年の春の選抜試合にレギュラーで出れると知ってからは、心が躍った。まだ甲子園に行く可能性は低かったが、それでも舞台に立つことができるだけでもすごいことだった。

そんな矢先の電話だった。
両親と妹が全員おっちんだと。
久しぶりに聞いた地元の少し訛りのある響き。
交通事故だったらしい。運悪くトンネルで大型貨物と衝突して、即死だった、と。

喪主は秀平が務めた。後見人は父親の親友の司法書士が引き受けてくれた。両親は勘当されていて、頼る親戚もいなかった。
残されたのは、多額の保険金と秀平宛の手紙だった。
きっと、次の日にでも投函しようと思っていたものだろう。中身にはもちろん事故に起こることを予想などしていなく、ただ秀平の身を案じていた。

何も力の入らない体のまま、秀平はとりあえず東京に帰ろうと思った。
東京に帰れば少なくとも野球ができる。全ての忌まわしい出来事を忘れることができるのだ。
そうして、空港から東京行きの飛行機にすぐさま飛び乗ったのだが。

『ノーズギアトラブルが発生。』

突然の機内アナウンスで飛行機の中はざわついた観客でいっぱいだった。それらを宥めようとするフライトアテンダント、そしてその人たちの意向など知らずにただ異常事態に泣き叫ぶ子供たち。

「現在、状況を確認している最中です。どうかお静かに!」
「どうなるんだ!俺たちは!」
「私たちを早くかえして!」
いろんな罵声や諌声が飛び交っていた。
ノーズギアトラブルというのは、いわゆる飛行機の前脚のトラブルらしい。とどのつまり、着地の時必要な前輪が出ないのだ。前輪が出なければ、安全な着地はできない。最悪の場合、残された道は胴体着陸だった。
観客はひたすら説明を求め、ヒステリックに叫んでいた。

そんな中、秀平はただ自分にふりかかったこの不幸がただの偶然だとは思えなかった。

父さん、母さん、茜…
俺のこと、呼んでるんだよね?

窓際に座っていた秀平はその窓から空を見上げた。
まさかその空に家族の姿がうつってみえるなどありえなかったが、少なくともその大空は秀平をこまねいている様にはみうけられた。

家族が死んですぐのタイミングでこの騒ぎだ。
窓の向こう側にいる秀平の顔が薄ら笑みを浮かべた。もうどうしようもない。
運命という言葉に逆らう気力は既に無かった。

「君、大丈夫?」

ふと声をかけられた気がしたが、喧騒の中の言葉だったので、秀平の耳には届かなかった。
「なぁ、大丈夫か?」
先ほどよりも大きな声が秀平の右耳に届く。同時に肩の誰かの体温を感じて、秀平は思わず振り返った。
見れば、隣の男がいぶかしげに秀平の顔を覗き込んでいた。
「何?」
確か隣の男はずっと背を向けて寝ていたはずだった。いつのまに起きたのだろう、とはいえこの騒ぎだ。寝ていられる方がおかしい。
「何って…。すごい静かだったから逆に心配で。普通騒ぐでしょ、こういう時は。」
大学生くらいであろうか。まだ社会には出ていない甘さが漂っていた。少し長めのヘアスタイルで、色は濃い茶髪だ。クラスで言えば、間違いなく目立つ部類の男だ。秀平みたいに教室の隅で寝ているような人間ではなさそうであった。
秀平が男を観察していたのが分かったのだろう。男は少し困ったように笑った。まるで僕はあやしいものではないですよ、とでも言い出しそうな顔だった。
「俺、春日明人ってんだ。」
少し間があった。秀平は戸惑ったが、促されているような気がして、口をあけた。
「…秀平です。」
秀平が小さい声で自分の名前を呟くと、明人はホッとした顔を見せた。泣きそうな表情で笑う顔が印象的だった。
「よかった、本当は怖かったのは俺のほうなんだ。誰かとしゃべっていないと不安で。」
「はい。」
「俺一人だから怖くてさ。君も一人で乗ってるんだよね?」
「はい。」
「…お前、ありえないくらい冷静だな。」
「だって、どうせ俺らが頑張れることなんて無いでしょ。」
そういいながら、秀平が冷静な理由は別だった。
もう助かるとは思っていなかった。導かれるように飛行機に乗った秀平に残されている道はきっと一つしかないと信じていた。

 …兄ちゃん

咄嗟に浮かんだのは少し言葉足らずの妹の顔だった。
妹はいつも俺についてまわった。昔の歯の抜けた間抜けな笑顔が印象的だったが、妹ももう中学生だ。それなりにかわいらしくはなっていただろう。けれど秀平の中の妹は幼く乳臭いままだった。

 …兄ちゃん、あたしも行きたい。ついていきたい。

親たちが最後まで反対する中、妹だけはそう言った。離れるのが嫌だと素直にすすり泣いた。人に自慢できるような優秀な妹ではなかったが、誰よりも可愛くて守ってあげたいと思わせる奴だった。

 大丈夫、もうすぐ会えるから。

秀平は空を見て、妹にそう呼びかけた。
顔色を変えない秀平を見て、明人は頭を掻いた。

「まいったな、お前、余裕だ。頼もしいよ。俺が恥ずかしい。」
「別に…。」
秀平の言葉を明人は全然違う方向にとらえたみたいだ。
秀平は話すこともなく、また窓に顔を向けた。飛行機はしばらく同じところをぐるぐるとまわっているように感じられた。
いつの間にか機内は少し静かになっていた。どうやらパイロットが機内アナウンスで何かを言ったらしい。秀平は明人のせいでちゃんと聞き取れなかった。
「なぁ。」
後ろで明人の声がする。
秀平がなんともなしに振り返ると、明人が先ほどよりも真っ青な顔をしていた。
「なんかしゃべってよ。しゃべってないと不安なんだ。」
秀平は眉を顰めた。大人のくせに、と少しだけイラつきを感じたが、あえて顔には出さなかった。
「…何歳ですか?」
しぶしぶ質問を繰り出すと、明人は震えた口調で答える。
「20歳だよ。」
「血液型は?」
「O型。」
「どこに住んでるんですか?」
「千葉県。」
「えーっと…趣味は?」
「料理とか。」
「何作るんですか…?」
「肉じゃがとか。意外でしょ。」
「…。」
「…。」
意外も何もあるか。あんたのこと知らないのに。
秀平は自分の作るお見合いみたいな質問項目に馬鹿らしくなってきた。
「なぁ、お前だって本当は怖いんだろ?」
しかも明人は見当はずれなことを言ってくる。
秀平は死ぬことなんて怖くなかった。怖かったのは、家族が秀平を許してくれないことだ。あんな後味の悪いまま、別れてしまって、そしてまた天国で出会うんだ。
親不孝と罵られても何も文句は言えなかった。
「怖くない。」
「嘘だ、だって寂しい目をしてる。」
お前はどこの詩人だ、と秀平は思った。
しかし、寂しいというのは確かにあっていた。
「俺、もうこっちに家族いないから。」
微妙に関連しているような話題をつい口にしてしまった。明人は目をサッと大きくすると、ごめんと小さく呟いた。
「…別に気にしてないから。」
俺は初めてそういうことをいわれた気がした。思えば家族を亡くして、まだ一ヶ月もたっていないのだ。ごめん、と言われてそれが何故ごめんなんだろう、と不思議な気持ちで考えていた。
「じゃ、今度は俺がシュウに質問していい?」
明人は急に声のトーンを明るくした。わざと空気を変えたのだろう。
見れば、にっこりとスマイルマーク張りの笑顔を顔に張り付かせていた。
明人の言葉を半テンポ遅れて理解してから、秀平はピクリと反応した。
「シュウ…?」
って言ったよな?今。
不信な目を向けると、明人が肩をすくめた。
「そう、呼ばれてるだろ?」
呼ばれていたからこくんと頷いた。
秀平のその様子を見届けると、明人は今度は自分を指差した。
「じゃ、俺はなんて呼ばれてるでしょう?」
何故か自信満々な笑みを浮かべている明人を秀平は目を細くして眺めた。
「…名前、なんていったっけ?」
「ひでー!春日明人だよ!!」
といいつつ明人はゲラゲラ笑っていたが。
「明人…じゃ、アキ…とか?」
自信なさげに秀平がそう言うと、明人は嬉しそうにブブーと口を尖らせた。その子供っぽいしぐさに若干ムッとしながら、秀平は答えを待った。
「答えはオニギリです。」
「ハァ?」
「俺、マジオニギリ大好きなんだ。」
「…。」
名前関係ないし!!
秀平が呆れた目で明人を眺めていると、明人はそんな秀平ににっこりと笑いかけた。毒気を抜くような作用を持っていた。
「あーあ、握り飯がたらふく食いてぇよ。」
明人が心底そう思っているように呟いた。でもそれは、例えば大学の授業とかで「お腹すいたー。」と言っている程度のものと同じように聞こえた。
明人は、もしかして秀平が思っているよりは案外ポジティブシンキングなのかもしれない。怖がっている表情なのに、どこか今ある危険を信じきっていないのかもしれなかった。
「シュウはさ、助かったらまず何がしたい?」
瞬間、やはりどうやら明人の頭の中はお花畑らしい、と秀平は思った。
秀平はまさか自分が助かるなんて微塵も考えていなかった。だから、明人が何故そんな馬鹿なことを言い出すか理解に苦しんだ。
「…助からないよ。」
「ハァ?」
「どうせ、助からないよ。」
秀平は隣にいる明人にさえ聞こえないような小さい声で呟いた。自然と膝に置いてあった両手が所在なさげに絡まりあう。秀平はそんな自分の指を黙ってみていた。
「ふざけんな、助かるっつの。」
先ほどの声よりも随分低い声が聞こえた。
秀平はびくりと体を揺らした。
希望にすがりついていたくて、明人は秀平としゃべっていたのだ。こんな絶望的なことを言われればそりゃ怒るだろう。
秀平はますます俯いた。明人の顔が見られなかった。
そこに居てはいけないような心地さえした。
秀平は自分のせいで飛行機が落ちるのかも、と思っていた。自分がこの飛行機に乗っていたから、死んだ家族がこの飛行機を落とすのだ、と。
「…俺のせいで、みんな死ぬんだ。」
膝に置かれた自分の手がいつのまにか服をぎゅっと握り締めていた。
すると、突然その手の上に一回り大きな手が置かれる。冷えた指先にほのかにあたたかい体温が流れてくる。
「お前、何言ってんの?意味分からんし。っつーか助かるから。」
ギュッと明人は秀平の両手を握り締めた。
「助かるから!」
念押しするように言われて、秀平はやっと顔をあげた。

明人はそんな秀平を見て、あぁまいったなぁと思った。
まるで迷子そのものだった。秀平の瞳にはそのまま明人が映っていて、今彼に見えている世界は明人だけなのだと思った。
どこが頼もしいのだろう。今にも首を吊りそうな顔じゃないか、これは。
勇気をもらうつもりが、いつのまにかあげる方にまわっていた。でも何故だろうか。こちらの方がよっぽど力が沸いてくる。
そうか、守る者がいないと、俺って頑張れないんだ。
明人は顔を軽く崩して笑った。
「ほら、質問、答えろって。助かったら何する?」
秀平は目を伏せた。その様子を明人はじっと見つめる。
しばらくして、その小ぢんまりとした口が微かに動いた。
「…野球。」
「え?」
「…野球がしたい。」
微かだがしっかりとした口調だった。
「なんだ、お前野球少年だったのか。」
明人の問いに秀平は小さく頷いた。
先ほどまで青白かった顔には生気が戻っていた。
「どこ、守ってるの?」
「…ピッチャー。」
「すげー!お前、ピッチャーなの!?」
俺が取り立てて驚いたから、周りの目がギロリと俺に向いた。
やばい、そういえばこんなほのぼのした話をしていて良い空間ではなかった。今にも発火しそうなほどにピリピリした空気だった。
けれど、そんな中で秀平は嬉しそうに頬を桃色に染めていた。そんな秀平を明人が見られたのは初めてだった。明人は一瞬だけ瞠目した。
「お前、可愛い奴だな。」
「…ハァ!?」
秀平が素っ頓狂な声をあげる。つぶらな瞳で睨んでくるが、全然怖くなかった。
「やばい、その顔可愛い。マジ守ってあげたくなる。」
秀平は更に顔を赤くした。
映画で聞くようなセリフだ。しかも普通だったら男が女に言うものだろう。それを明人は惜しげもなく秀平に言い放っていた。
不意に握り締められていた手に更なる力がこめられる。
秀平はハッとして、手を離そうとするが、明人の手はまるで吸盤みたいにへばりついていて離れない。
「離せよ。」
「やだ、絶対離さない。」
大真面目に明人は言い切った。秀平は何も言えずに明人を睨みつけたが、動じない明人を見て、「勝手にしろよ。」とふてくされた。

飛行機は相変わらず空中だった。
機内アナウンスが流れる。どうやら急旋回させて前脚を無理やり出すという手法を試みるらしい。
秀平は相変わらず窓の外を見ていた。
さっきまで窓の外の風景がとても近くに感じられたのに、今はそうでもなかった。秀平の右手には明人の左手が重ねられていた。それが何故かひどく気になった。
秀平は明人の存在を意識しないように頑なに窓の外を覗く姿勢を保つが。

「シュウ、一つ約束をしよう。」

不意に明人に話しかけられて、馬鹿みたいに秀平の体は跳ねた。これでは、平静を保とうとして失敗しているのがバレバレである。
そんな様子を明人はまるで分かっていたように笑うと、その続きを言った。

「この飛行機がもし無事着陸できたら、俺とキャッチボールをしよう。」
「…キャッチボールできるの?」
「男のたしなみだろう。」
明人は笑った。
「それでさ、その後は一緒にたくさんオニギリ食べよう。お腹が壊れるまで食べ続けよう。」
「お腹が壊れるまで?そんなんやだ。」
「やだじゃない。約束だからな。」

秀平は一方的な口約束に文句を言おうとしたが、それっきり明人は口を噤んだ。
秀平は疑うような瞳で明人を見る。
明人は力を秘めた目をしていた。対峙していたら、きっと圧倒されるような目だった。
青白い顔をして秀平に話しかけていた明人はどこにいったのだろうか。
やはり、なんだかんだいって年上なのだ。生き抜く強さを持っている。

秀平は不意に自分がどうしようもなく弱い生物に思えた。そして目の前の男がどうしようもなく強く見えてしまった。

すがりつきたいと。

一瞬だけ、隠されていた本音がよぎった気がした。
けれどすぐに思い直した。

ぎゅっと握られた手を見つめながら、家族を思った。

 シュウ…家族は一緒にいるもんだ…

父親の言葉を思い出す。
父と母は駆け落ちで、親元からは勘当されていた。だからか、余計に家族の絆を意識していた。秀平と茜に寂しい思いをさせたくなくなかったのだろう。
でもそんな父の主張を秀平は自分のエゴのために踏みにじった。

飛行機がグンと揺れた。乗客の押し殺した悲鳴があちらこちらで聞こえてくる。
降下に伴って長い浮遊感が秀平を支配する。
重力がなくなると、なんだか魂が抜けたような錯覚に陥る。自分の重みが消えるというのは心がなくなるような感覚だ。

しばらくそんな状態が続いたが、突然飛行機が上昇し始めた。それに伴い、機内アナウンスが流れる。
どうやら急旋回させて前脚を無理やり出すという試みは失敗したらしい。
結局は最初に危惧していた通り、胴体着陸を行うとのことだった。パイロットは何度も訓練を受けているので大丈夫だと、安心するように声掛けをした。
けれど、秀平は全身の血が冷たくなったような心地がした。

ついにその時が来た。

と思った。
先ほどまで平静を装えた自分が嘘みたいだった。
指先や足先、とにかく体の先端が凍るように冷たくなっていった。そうして小刻みに震えだす。秀平はそんな自分に気づかないように、目をきつく閉じた。
「おい。」
目を開けると、明人がいた。秀平が訝しげな瞳を向けると、明人は無理やり秀平を起こした。
「何?」
「乗客は後ろの方に避難しろだと。そっちの方が安全らしい。」
「…そう。」
それでも動こうとしない秀平に痺れを切らしたのか、明人は秀平をグイッと強い力で引き寄せた。
秀平がそれに気づいたときにはもう秀平は明人の腕の中だった。
「俺が守ってやるから。大丈夫だ。」
ひどく無責任な発言だと秀平は思った。守るだなんて言っても明人にできることなんて何も無いのだ。
「最初に言ったでしょ。どうせ俺たちに頑張れることなんて無いんだよ。」
「でもお前を抱きしめていてあげることくらいならできる。」
「頼んでないよ。」
「いいんだ。」
何がいいんだ、と秀平は明人を睨んだが、明人は秀平のその目線を知らん振りした。
そのまま、誰にも見せたくない宝物のように扱われながら、秀平は後部座席に連れて行かれた。秀平が座席に落ち着いても、明人は秀平を離さなかった。

それから20分後くらいに飛行機は傾き始めた。
またどうしようもない浮遊感が秀平を襲う。

魂が抜かれていく、秀平は苦しげにそう思った。
ぎゅっとつぶったまぶたの裏から光が見えた。

 兄ちゃん…

恐怖が生んだ錯覚だった。
けれど、その光は秀平の妹の姿をしていた。

 兄ちゃん、これからは一緒だね

茜は嬉しそうに秀平に手を差し伸べた。
茜の更に向こう側には秀平の父と母が慈愛に満ちた笑みを浮かべて静かに佇んでいた。

それで秀平もやっと笑えた。

 父さん、母さん、俺も本当はずっと一緒がよかったんだ…

秀平がそう言うと、父親は満足したように目じりを下げた。
差し伸べられた茜の手を握ろうと、秀平は右手を伸ばそうとした。
しかし、どう頑張って右手が出てこない。

誰かに抑えられている。
そう思ったときはひどく動揺した。

茜はそれでも秀平に手を伸ばしていた。
けれど、秀平は自分をがんじがらめにしている何かと一緒に沈んでいく。

妹と両親がどんどん遠ざかっていく。
それを秀平は信じられないといった風に見届けていた。

 離せ!俺を放してくれ!!

そうもがくが、拘束は決して緩まない。

家族がどんどん見えなくなっていく。


『約束だからな。』


不意に声が聞こえた。父親の声でも、妹の声でもなかった。
知らない、ただその場限りの声だ。

なのに無視できなかった。

秀平がその声を聞いた瞬間、世界が変わった。

気づけば、甘い幻想は消えていて、秀平は明人の胸の中に抱かれたままだった。
明人はありったけの力で秀平を抱きかかえていた。
飛行機はまだ降下を続けていた。どうやら白昼夢を見ていたらしい。

明人の腕の中はひどく苦しかった。それだけ強く抱きしめられていた。

秀平は小さく笑った。
そうだ、生きることってこんな感じなのだ。
不意に奪われた魂が戻ってきたような感覚がした。
現実感が秀平の表情を如実に変えていく。

もうすぐ胴体着陸が行われるのだろう。
その後の運命など秀平には分からなかった。

けれど。

けれど、秀平をそこに縫いとめたのは最後の良心だった。
約束は守りたい、と思った。
きっと明人はなんともなしにとりつけた約束だろう。
けれどそれを消化しないまま、人生を終えるのは後味が悪かった。
きっとそんなもんなのだ。生きることへの覚悟なんてその程度のものでどうにかなるんだ。

浮遊感がなくなる。飛行機の後輪が大地についたようだった。
そしてキィィィィと何かが擦れる爆音、激しい揺れが訪れる。


どうなるかなんて分からなかった。

がっしりとした体におさえられながら、秀平はぎゅっと目を閉じた。





終わり



え、これで終わり?って思った方すみません。これで終わりです。続編書きたいなぁ…。
written by Chiri(4/10/2007)